民法819条(単独親権制度)改正を求め共同親権・共同監護制度の導入・ハーグ条約締結の推進と活動を行っています

裁判所実務

官僚裁判官に見る「イェルサレムのアイヒマン」

 平成25年12月 後藤富士子弁護士執筆論文

■ ウソみたいなホントの話

関西の家裁支部の事件。実家に戻った妻が夫に対し、長男(5歳)の引渡しを求める本案審判と仮処分の申立てをした。長男は、母親から物を投げつけられたり、胸を足で踏みつけられたり、洗面器で顔面を殴られたりされたため、母親に引渡されることを拒んでいた。ところが、家裁調査官は、これらの虐待行為を認定したうえで、「体罰が不適切であることは明らかであるが、母親による監護によって長男の発育や母子の愛着関係に特段の支障を及ぼしているとの事実は認められない」「同居中は専業主婦であった妻が主たる養育者であり、監護の継続性が重要である」「別居後は会社員として就労している夫が両親と共に長男を大事に監護しているが、祖父母の監護は実家に暮らす妻の監護に優先させるべき特段の事情は認められない」として、引渡しを認容すべきとの意見を呈示した。家事審判は、「専門家」とされる調査官の報告書を「審判」に書き直すだけなので、長男を妻に「仮に引き渡せ」との仮処分および妻を監護者に指定したうえで引渡せとの本案審判がされた。

仮処分に基づき、執行官の強制執行が行われた。執行官は、長男一人と相対して、「母親の下に行く意思があるか」を確認したところ、長男は拒否した。執行官は、長男と接しているから強制力を行使して執行することも可能であったが、そうすると長男に身体的ダメージを与えるおそれがあるので「執行不能」とした。
すると、妻は、地裁支部に人身保護請求の申立てをした。つまり、夫は長男(6歳になっていた)を違法に拘束しているというのである。裁判所は、仮処分や本案審判を鵜呑みにして、トコロテン式に「人身保護命令」を発した。これは、夫(拘束者)が審問期日に長男(被拘束者)を連れてこなければ、連れてくるまで勾留するという命令である。長男が引渡しを拒んでいるのに、父親が裁判所に長男を差し出すことなどできるわけがない。そして、夫は、拘置所に勾留された。さすがに裁判所もいつまでも勾留しておくわけにはいかず、10日後、認容判決(長男を釈放し、請求者に引渡す)をして夫を釈放した。人身保護命令は空振りに終わった。父は強し。

一方、引渡しの確定審判につき「引渡すまで1日3万円」の間接強制決定がされ、夫が勾留中に賃金に対し738万円(246日分)の強制執行(債権差押)がされた。1年分の金額は夫の年収の約2倍であり、「引渡すまで」であるから、日々3万円の支払義務が発生し続ける。

なお、妻は最初に申立てた離婚調停を取下げており、人身保護請求事件において被拘束者国選代理人の調査でも、妻の離婚意思は確認できなかった。すなわち、離婚の法的手続も係属していないのに、父母間で子の身柄の移転を裁判所が命じているのである。しかも、許せないのは、調査官が、「当事者双方が、子にとって父母いずれもが大切な存在であることを十分に認識し、子のために父母としての新たな協力関係の構築に向けて努力すること、監護者が確定した段階においては、すみやかに非監護親との面会交流を実現することが、子の健全な情緒発達に寄与するものと考える」などと特記していること。その偽善・欺瞞には吐き気がする。長男の意思を尊重して、夫を監護者に指定し、妻との面会交流を実現する方が、自然で無理がない。わざわざ引渡させて、夫を非監護親にしたうえで協力関係の構築に努力せよ、とは「気は確かか?」と言いたくなる。

■ 裁判の「陳腐さ」

裁判官は、「良心に従い独立して職権を行使し、憲法と法律のみに拘束される」と憲法76条3項に定められているが、引渡しを命じた裁判官は、調査官のいいなりで、自分で判断していない。「婚姻中は父母の共同親権」とする民法818条3項はどこへ行ったのか? 仮処分執行が不能になると予想しなかったのは、子どもを独立の人格主体と認めないからである。そして、同じ裁判官が、「1日3万円」の間接強制命令を出したうえ、738万円の差押命令も出している。

人身保護請求事件の裁判官らも、仮処分の執行において執行官は長男に意思能力があることを前提にして確認しているのに、「自己の境遇を認識し、かつ将来を予測して適切な判断をする能力」を「意思能力」とする昭和46年の最高裁判決に従い、また、意思能力のない幼児を監護することは、当然幼児に対する身体の自由を制限する行為が伴うから、その監護方法の当、不当または愛情に基づくか否かにかかわらず、人身保護法にいう「拘束」に当るものと解すべきであるとする昭和43年の最高裁判決に従うのである。

1960年、ナチス親衛隊で何百万のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関モサドに逮捕され、エルサレムに拉致された。その裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、アイヒマンは「凶悪な怪物」ではなく、平凡な人間なのだと認識する。アイヒマンは、「自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。命令に従っただけなのだ」と繰り返し主張した。ハンナによれば、「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪であり、そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのだ」とし、この現象を『悪の凡庸さ』と名付けた。また、裁判の中で明らかにされた、ユダヤ人指導者がアイヒマンの仕事に関与していたことにも触れ、「彼らは非力であったにしても、抵抗と協力の中間に位置する『何か』はあったはずで、別の振る舞いができた指導者もいたのではないか」と問い、「ユダヤ人指導者の役割から見えてくるのは、モラルの完全な崩壊であり、ナチスは、迫害者のモラルだけでなく、被迫害者のモラルも崩壊させた」と論じる。人間であることを拒否したアイヒマンは、「思考する能力」を放棄した結果、モラルまで判断不能となったのだ。そして、「思考」とは、自分自身との静かな対話であり、「考えることによって人間は強くなる。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」というのが、ハンナの結論になっている。

平成25年の裁判に、昭和43年や昭和46年の最高裁判例を持ち出すなど、現在そして未来に生きる親子には、信じられないことである。しかも、「勾留」だの「1日3万円」だの、その裁判をしている当の裁判官が異常と思わないのが恐ろしい。誤った裁判であっても、確定した以上どこまでも従わせようと暴走する。そこにあるのは「判例に従っただけだ」という『悪の陳腐さ』である。

結局、憲法76条3項が想定している裁判官は、「自分の主体性をかけて裁判する」という「思考する人間」でなければならず、官僚であることと両立しないのであろう。

【注記】
ハンナ・アーレントは、ナチスの強制収容所から脱出し、1941年アメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人の哲学者。1951年には、『全体主義の起源』を公刊し、アメリカ合衆国の国籍を取得(それまで18年間無国籍)。

1961年、アイヒマン裁判を傍聴するためイスラエルに渡航。1963年、裁判のレポートをザ・ニューヨーカー誌に連載し、全米で激しい論争を巻き起こす。同年『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』として単行本化。

1975年12月4日、ニューヨークで死去(享年69歳)。

「人身保護命令」と裁判官-暴走する司法

 平成22年9月20日 後藤富士子弁護士執筆論文

1 「人身保護命令」と「ヘビアス・コーパス」
 昭和23年に制定・施行された「人身保護法」は、憲法第34条後段「何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」という、英米の人身保護法を想起させる規定に基づくもので、人身保護令状についての詳細な手続法である。
 英米の人身保護法は、人身保護令状(writ of habeas corpus )を中心として発達したものである。 habeasは haveを意味し、corpusはbodyを意味するもので、habeas corpusはyou have the body、すなわち「被拘束者の身柄を差出せ」との意味を有する。そして、人身保護令状は、他人を拘束した者に対し、令状を発する裁判所又は裁判官が被拘束者の利益のために考慮するいかなる事項をも実行し、服従し、受忍させるために、被拘束者の身柄を一定の日時、場所に、逮捕拘禁の月日及び事由を添えて、出頭させることを命ずる令状である。それは、法律中において最も有名な令状であり、幾世紀の間、個人の自由に対する違法な侵害を排除するために採用されて来たので、しばしば「自由の大令状」と称される。
 ところが、日本では、人身保護命令が本来の意味するところに従って使われることは皆無である一方、専ら父母間における子の身柄争奪に濫用されている。しかも、人身保護法が「手続法」であることを理解しないから、人身保護法の手続は「子の身柄を父母間で移動させる」手段に堕して、ことごとく法が無視されるのである。したがって、裁判所は無法地帯と化している。

2 命令不服従の制裁――「裁判所侮辱罪」
 人身保護法による救済の要諦は、被拘束者を審問期日に在廷させて、認容判決の言渡しによって「直ちに釈放する」(法16条3項)ことにある。人身保護法は二審制であるが、一審判決の言渡しによって効力を生じ、「釈放」が実現するのである。
 そこで、被拘束者を審問期日に出頭させるために、拘束者に対して人身保護命令が発される(法12条2項)。人身保護命令を発して開く第1回審問期日に被拘束者が出頭しない場合、認容判決を言渡しても、現実の「釈放」はできないから、期日が延期される。
 また、拘束者が人身保護命令に従わずに被拘束者を出頭させない場合、勾引や勾留の制裁を受けることがある(法18条、規則39条)。人身保護法の手続が英米のヘビアス・コーパスに由来するというものの、英米では、命令違反の制裁は裁判所侮辱罪で対処されるのに対し、官僚裁判官制度の日本では、裁判所侮辱罪の制度ができるまで、やむなく刑事訴訟法の勾引・勾留を準用したという。
 しかるに、人身保護法制定から60年余経過してなお、裁判所侮辱罪は影も形もない。その理由を考えると、英米の裁判官が「一元判事」であるのに対し、日本の裁判官は、一人で裁判できない「判事補」までいて、昇進制の下におかれた官僚裁判官だということであろう。このような裁判官に、「自由の大令状」を発布する崇高な権限を付与することは不可能である。

3 弁護士会(子どもの権利委員会)の犯罪
 ところで、父母間の幼い子どもの「身柄奪取」に人身保護法の手続が使われる際の最大の問題は、被拘束者である子どもの「人格」が完全に無視されることにある。
 人身保護法における「請求者」は形式的当事者にすぎず、実質的当事者は「被拘束者」である。したがって、被拘束者は一切の訴訟行為をすることができ、それが請求者の訴訟行為と抵触する場合には、抵触する範囲において請求者の訴訟行為は効力を失うとされている(規則34条)。そして、「請求者」は誰でもなれるが、弁護士強制である(法3条)。また、被拘束者の代理人は弁護士でなければならないとされている(規則31条)。
 しかるに、請求者と拘束者が父母であることから、裁判所は拘束者が依頼する私選代理人を認めず、国選代理人が選任される。裁判所は弁護士会に推薦を依嘱し、弁護士会は「子どもの権利委員会」から推薦し、国選代理人が選任される。ところが、この国選代理人は、被拘束者の意思能力を認めないし、その主張さえしようとしない。そして、やることと言えば、家裁調査官のような調査であり、「請求者に引渡す」という認容判決に沿った意見を具申するのである。人身保護法の手続は、家事審判手続ではないのだから、これでは弁護士の役割を全く果たしていないし、被拘束者に対する背信行為である。
 このような茶番劇が人身保護法の手続において繰り広げられるのは、裁判官も弁護士も、人身保護法の手続を、子の身柄奪取の手段としてしか念頭になく、法を侵害していることの自覚すらないからである。私は、平成20年4月に初めて拘束者代理人として事件受任して以来、人身保護法のイロハについて理解している法曹に出会ったことがない。そして、司法の暴虐により、この依頼者は、自殺してしまったのである。
 「子どもの権利条約」が日本で発効したのは平成6年のことであり、その前年には、父母間の子の身柄争奪紛争について人身保護法による救済を抑制する最高裁判決(可部判決)も出ている。それにもかかわらず、弁護士会の「子どもの権利委員会」は、民法の離婚後単独親権制について疑問も持たず、家庭裁判所が「監護者指定」「親権者指定」の名目で、親権喪失事由のない親から親権・監護権を剥奪する不正義を疑わずに、「司法拉致」の方法として人身保護法の手続を用いることに邁進してきた。「子どもの権利」などと言いながら、親子を迫害することに加担している弁護士こそ、社会的に断罪されるべきである。

「未来を現在に浸入させる」-体制変革の手法

 平成22年8月5日 後藤富士子弁護士執筆論文

1 「キャリアシステム」と「法曹一元」
 裁判官任用制度として見ると、キャリアシステムは昇進制であるから、「裁判官」といっても身分・給与に等級差があるし、権限にも差がある。統一修習を終了して直ちに任官する「判事補」は、原則として一人で裁判をすることができない(裁判所法27条)とされているから、「独立して職権を行う」と憲法76条3項に規定された「裁判官」に該当するはずがない。
これに対し、「法曹一元」の裁判官は、給源を広く拡大するものの、裁判官=判事は全て同等の権限を有し、身分・給与に等級差もないし、昇進制でもない。実例としては、最高裁判事である。そして、憲法80条1項で下級裁判所の裁判官の「任期は10年」とされていて、終身雇用的なキャリアシステムとは反する原理である。
このように、現行裁判官任用制度は、憲法の価値体系に反するものである。そうなったのは、法曹資格取得後10年の経験を積んだ法曹が任官するというのでは、必要な数の裁判官を確保できないという事情による。それが、「判事補」という、キャリアシステムを温存する「がん細胞」みたいなものを生み出した。
ところで、弁護士として裁判実務に携わっていると、担当裁判官の資質・能力に極端な差があり、全く不公平である。「あたり~」「はずれ~」と依頼者に説明し、「はずれ裁判官」に判決や審判をさせないように苦労している。全体的にどうしょうもなく質が低下しているが、それでも「聞く耳」をもつ裁判官ならなんとかなる。翻って、身分・権限・報酬に差があるくらいだから、裁判官としての資質・能力に差があるのも当然なのに、あたかも「どの裁判官でも品質は同じです」と利用者を欺いている。
このような、利用者にとって、それ自体「不正義」な裁判官任用制度を維持したら、司法は崩壊する。司法が崩壊すれば、「法の支配」は無に帰し、日本社会は無法地帯と化すのである。実際、その兆候は顕著になっている。そうすると、キャリアシステムは変革されなければならないが、どのような制度にするかといえば「法曹一元」であろう。
「法曹一元」制は、現行裁判所法に原理が埋め込まれている。法曹人口が増えれば、必要な数の裁判官を確保することも可能になる。そして、「一元判事」は、最高裁判事として現に存在している。したがって、裁判官任用制度の体制変革はリアリティを強めている。それにもかかわらず、日弁連は、旧体制である「給費制統一修習」にしがみつく。これを守旧派といわずして何というのか。「市民のための司法改革」だなんて、冗談はよしてほしい。

2 核家族の自治――国家に対する親の「子育て権」の確立
現行民法で離婚後は単独親権とされているのを、離婚後も共同親権に法改正しようと提言して15年以上経つ。ところが、「離婚後の共同親権」どころか、「離婚前の単独親権前倒し」が家裁実務で横行している。どうして、こんなことになるのか? その原因は、国家との関係で「親権」を親の自然的権利と認めないからである。
ドイツ基本法6条2項は「子の養育および教育は両親の自然的権利であり、かつ、第一次的にかれらに課せられる義務である。国家は、両親の活動を監督する」と規定しているが、これはワイマール憲法に由来する。すなわち、ドイツでは、第二次大戦以前に既に「家族」は「血族共同体」ではなく、「夫婦と子ども」という核家族であった。そして、この規定の意味は、まず親の自然的権利として国家に対する「責任領域」が設定され、義務の不履行があれば、国家がその領域を縮減して介入するシステムを予定する。したがって、両親の離婚について単独親権とされるのは、国家が親の責任領域を縮減して介入し、「子の福祉」の見地から単独親権者を指定するのである。離婚後も共同親権制になったのは、「子の最善の利益」についての科学的知見に基づく社会的認識の変化による。つまり、国の公共政策が変化したのである。
これに対し、日本の戦前の「家制度」は、まさに血族共同体であり、国家に対し責任領域を形成していたのは「家長」である。つまり、日本国憲法により「家制度」が解体されたとき、「家長」に代わる者として「国」がしゃしゃり出てきただけで、「家族の自治」は「家制度」の解体とともに消滅した。換言すると、日本の「親」は、国家との関係で、「子育て」について自然的権利と認められたことはないのである。
したがって、離婚成立前の共同親権の法状態で、国家により片親の親権が剥奪される事態を許していては、離婚後の共同親権どころではない。「両親の自然的権利」を法的に承認させることこそ、現在の焦点である。そうすれば、「子の最善の利益」についての世界共通の理念に照らし、日本でも離婚後も共同親権になるはずである。

3 体制変革のレーニン的手法
「キャリアシステム」と「法曹一元」。「単独親権」と「共同親権」。
「現行制度」と「新しい制度」。これを二元的に捉えていたのでは、どこまでいっても両者は不連続であるから、新制度を実現することは不可能である。
しかし、レーニンのように、一元的に捉えれば、必ず両者は連続する。すなわち、現行制度の矛盾を克服するものとして新制度が構想されるのだから、現行制度の中に新制度は胚胎しているのである。「未来を現在に浸入させる」というのは、制度変革の手法なのである。

【参考文献】白井聡「未完のレーニン」(講談社選書メチエ)

亡国の司法 単独親権・DV防止法・人身保護請求

出典:平成22年7月 みどり共同法律事務所 コラム・弁護士(後藤富士子弁護士執筆論文)

1.「子の拉致事件」に変貌する離婚紛争
ある日突然、わが子が配偶者に拉致され、行方さえ分からない。行方が分かっている場合でも、会うことができない。ありふれた離婚事件なのに、「子の拉致事件」になっている。これが、北朝鮮ではなく、日本の現実である。
このような理不尽な目に会わせられて、善良な親は、うつ病になり、自殺する者もいる。苦悩煩悶する親を見ると、どのような理由があれ、夫婦の一方が他方の「親としての存在」を否定・抹殺するなんて、このうえない暴虐・迫害で「不法行為」というほかない。ところが、司法の世界では、これが通じない。配偶者に対する親権侵害とも、親権の濫用とも看做されないから、自力救済する以外に、拉致された子を取り戻すことも、会うこともできない。それなのに、自力救済すれば、略取誘拐罪で弾圧されたりする。
一方、子を置き去りにした妻が、居所を秘匿したまま「監護者指定・子の引渡し」の審判・保全処分を求めると、それが認容され、子の引渡しの強制執行が行われる。その強制執行は、「未成年者目録」に特定された「家畜」の「捕獲」「拉致」さながらである。そして、執行不能になると、「最後の手段」と称して人身保護請求がされ、「拘束者」たる親は、勾引、勾留の脅しにさらされる。
離婚後の「単独親権」制は、親権喪失事由がないのに、裁判官が片方の親から親権を剥奪できるということ。これ自体、不正義というほかないが、離婚成立前は共同親権なのだから、さらに酷いことである。

2. 「DV防止法」---子の拉致・隠匿を権力が「援助」
裁判所に「DV保護命令」を申立てるのは、必ずしもDVの被害が深刻だからではない。むしろ、深刻な被害を受けている「真正被害者」は、保護命令の申し立てができないことも想像に難くない。保護命令申立がされるケースで多いのは、離婚を有利に運ぶための便法と思われる。
【ケースA】では、夫婦の共有不動産(自宅)から夫を追い出そうとして、妻が子どもを連れて家出し、居所不明のまま、DV保護命令申立をした。居所が不明であるから「接近禁止」など無意味であり、真の狙いは「退去命令」にあった。しかし、「退去命令」は「明渡命令」ではなく、妻が自分の荷物を搬出するために一時的に夫に退去を命じるものである。そこで、夫は、妻の荷物を梱包して、妻の職場に連絡して引き取りを要請したところ、妻は、怒り狂って自宅に警察官と乗り込んできた。結局、夫は、荷物を倉庫に預託し、その旨妻に連絡した。1審も妻の申立を却下したが、抗告審では、妻を「DV防止法10条1項にいう被害者には当らず」、申立を認める余地はないと決定した。それにもかかわらず、2年経過する現在まで、妻は住民票を残したままで、夫は子どもに会うこともできないのである。
【ケースB】では、妻がDV被害者支援団体の指南を受けて周到に準備したうえ、子どもを連れて失踪した。朝、夫婦で談笑したのに、夜、夫が帰宅すると「もぬけの殻」であった。夫名義の預金も全部持ち出されている。そして、妻代理人弁護士から通知が来て、離婚と婚姻費用分担の調停申立がされた。偶然、妻の居所が分かったので、4ヶ月後に夫と弁護士とで妻の居所に子どもに会いに行ったが、子どもに会わせてもらえず、夫に対して保護命令申立て、弁護士に対して懲戒請求がされた。保護命令申立は1審で却下され、抗告、特別抗告でも変更されなかったが、診断書により「暴力があった」と認定されたことが禍根となった。離婚訴訟手続で、カルテ・検査結果など資料一式の送付嘱託申立をし、妻側から任意に提出されたところ、虚偽の診断書であることが判明した。また、妻が、保護命令申立事件の審尋で治療内容について嘘を述べていることも明らかになった。
ことほど左様に、DV保護命令の手続自体、適正手続を保障した憲法31条に反するもので、あっという間に「保護命令」が出されてしまう。それは、「配偶者間」という気易さと、命令の効力が6ヶ月ということもあるのだろう。6ヶ月後に再度の申立がされて、初回から却下されるべきであったとわかる「却下決定」がされたケースもある。
ところで、「DV防止法」の本当の害悪は、平成16年の改正で「援助」の規定が盛り込まれたことである。それは、「子どもを連れて夫の知らないところに引っ越す際に、警察に対して、夫が捜索願を出してきても受理しないでほしい」という「捜索不受理届」がされると、夫は妻子の行方を知ることができなくなる。しかも、妻が「DV被害者」と自己申告しさえすれば、その他に何の要件も必要としない。これでは、「DV冤罪被害者」が世に溢れるのは当然である。ちなみに、平成20年の警察への「相談」は2万5000件、裁判所への保護命令申立は3000件。かように、保護命令の申立などしなくても、妻は目的を達するのである。換言すると、DV防止法の運用実態は、家庭破壊を教唆したうえ、子の拉致・隠匿を権力的に援助するものとなっている。

3.人身保護請求---誘拐犯よりも迫害される「親」
平成19年12月、妻が「DV被害」を装って、子を夫に託す置手紙を残して単身家出した。その後、気が変わって、子の親権を主張し、「監護者指定・引渡し」の家事審判・保全処分を申立てた。裁判所は、「DV」ということに気を取られたのであろう、いずれも認容する決定をし、保全執行がされたが、子が嫌がったため、執行不能になった。すると、本案審判が確定しているのに、人身保護請求をしたのである。「請求者」である母は、「本案強制執行は子どもを傷つけるから・・」というのである。しかし、これは「拘束者」である父に勾留の脅しをかけて、嫌がる子どもを差し出させることには平然としているのだから、人倫にもとるし、人間性に対する冒涜というほかない。
ところが、裁判所は、人身保護命令を発し、被拘束者が出頭していないのに第1回審問期日を行い、第2回審問期日には勾引状を発したうえ、認容の判決をしている。
このケースでは、そもそも妻が子どもを残して家出したのだから、人身保護法にいう「拘束」の事実が存在しない。家事審判で妻が監護者と指定され、夫に子の引渡しを命じたことで夫の監護が違法となるにしても「拘束」が生じるものではない。また、請求の要件である「他に適当な方法がない」という点でも、本案審判の強制執行ができるのだから、要件を充足しない。したがって、人身保護命令を発する要件に欠けている。
さらに酷いことに、弁護士会の推薦で選任された子どもの国選代理人は、「被拘束者不出頭のまま審問期日を開いても不利益はないから異議がない」と述べている。そうであっても、法律上、第1回審問期日を開くことはできず、「延期」しなければならないのに、裁判官たちは無知なために開いたのである。人身保護法の第1回審問期日は、刑事手続の「勾留理由開示公判」に擬せられるもので、憲法34条後段に基づくものなのだ。
しかるに、父母間の「子の身柄奪取」の手段として、家事審判と連動する形で運用されている。親権喪失事由のない親が、どうして国家権力からこれ程の迫害をうけなければならないのか。誘拐犯でさえ、適正手続保障を受けたうえ、刑罰は懲役7年以下である。結局、親権喪失事由のない親から離婚時に親権を剥奪する単独親権制に根本原因があると思われる。

4.「親権喪失宣告」を離婚で流用するな!
「DV被害者」と称する妻は、それを理由に夫の親権者不適格を言い募る。しかし、それなら「親権喪失宣告」の申立てをしたらよかろう。DVをでっち上げて行方をくらまし、子どもを隠匿している妻が、申立てをするはずがないが、それは夫に親権喪失事由がないからである。
また、人身保護請求をする配偶者も、他方配偶者に親権喪失事由がないことを熟知している。「監護者指定・引渡し」という、単独親権制を離婚前に準用した司法判断を錦の御旗にしているにすぎない。
かように、離婚後単独親権制は、親権喪失事由のない親から親権を剥奪する不正義なものであり、それを活用する親こそ、親権濫用として、親権を喪失させるべきではなかろうか。そうすることによってのみ、「家庭に正義を、子どもに愛を」という家裁の存在意義を達成できると思われる。

「国家が家庭を破壊する契機」-親権と裁判所

 平成22年6月19日 後藤富士子弁護士執筆論文

1 「親権者指定」の決定権
 民法818条3項は「婚姻中」のみ父母の共同親権としており、離婚後は父母どちらかの単独親権である(819条)。問題は、どちらを単独親権者とするかについて、父母の協議で決まらなければ、「裁判所が決める」とされていることである。そもそも単独親権制は、「両性の本質的平等」と両立しないのに、裁判所に「不平等」を実行させるのであるから、「おさまり」が悪いのも当然である。
 ところで、裁判所が「両性の本質的平等」に反する決定をする際の基準は「子の福祉」の見地である。私の頭が単純なせいか、二人いる親を無理に一人にすること自体が「子の福祉」に反するとしか思えない。共同親権のまま、「共同監護」の具体的形態を調整する基準として「子の福祉」が言われるなら納得できる。つまり、裁判所は、両親に親権を保持させたまま、養育監護の共同責任の履行について介入するのである。

2 単独親権者の再婚相手と養子縁組した場合
 「親権者変更」は、父母のどちらか一方の単独親権に服している子について、「子の利益のため必要がある」と認めるときは、子の親族(子自身は除く)の請求によって、家庭裁判所が親権者を他方に変更することができる(民法819条6項)。つまり、一旦、父母のどちらかが親権者と指定された以上、それが父母の協議で決まった場合でさえ、父母の合意だけでは親権者変更ができない。あくまで家庭裁判所の審判によるのである。
ところで、「親権者変更」が問題になる事例の一つは、単独親権者が死亡した場合に、非親権者である実親に親権者変更が許されるかという問題である。これについては、後見人が選任される前後を通じて、「子の福祉」に適う限り、許されるとするのが実務の趨勢である。
 これに対し、単独親権者の再婚相手と養子縁組して実親と養親の共同親権に服している場合に、非親権者である実親への「親権者変更」は認められない。その理由とされるのは、もし親権者たる実親から非親権者である他方の実親への変更が認められると、「婚姻関係にない―あり得ない―2名の男性または2名の女性の親権者が同時に存在するという、民法の全く予想だにしなかった事態が生じることになる」からだという(昭和38年盛岡家審)。あるいは、共同親権から単独親権への変更に疑問があり、共同親権者の親権行使の方法等が子の利益を害するような場合は、民法834条以下の親権喪失宣告等の手続で処理すべきという(昭和48年東京高決)。なお、親権者変更の申立は許されるとする判例(昭和43年大阪高決)もある。
 このように、単独親権者が再婚して、配偶者と養子縁組してしまった場合、そもそも非親権者には養子縁組を阻止する機会もないうえ、実親と養親の共同親権の前に「出る幕がない」状態に貶められる。これは、単独親権者が自分の両親と代諾養子縁組してしまった場合も同様である。すなわち、単独親権をめぐる紛争の後、非親権者をシャットアウトする方策として養子縁組がされるのであり、養子縁組がされた後は、非親権者は子との接触をもたないことが「子の福祉」に適うという考えが根底にあるようである。しかしながら、前述したように、単独親権者が死亡した後、非親権者に親権者変更することを考えると、非親権者と子の交流が保たれていなければ「子の福祉」が枯渇してしまうのである。

3 子をめぐる家族(親)と国家の関係
 広渡清吾教授の「国家と家族―家族法における子の位置」(法と民主主義№447)によれば、ドイツ基本法6条2項は「子の養育および教育は両親の自然的権利であり、かつ、第一次的にかれらに課せられる義務である。国家は、両親の活動を監督する」と規定しているが、これはワイマール憲法に由来する。この規定は、まず親の自然的権利として国家に対する「責任領域」が設定され、義務の不履行があれば、国家がその領域を縮減して介入するシステムを予定するものであると解釈されている。
これに対し、日本の現行民法の解釈では、親権につき「親の自然的権利」と承認されておらず、国家に対する「責任領域」が設定されてもいない。「親権者指定」「監護者指定」「面会交流」と、ことごとく国家が両親の間に介入して、どちらか一方の肩を持ち、他方を叩きのめす。こうして家庭裁判所は「家庭破壊の先兵」になるのである。
 しかしながら、日本国憲法は、子が個人として人間の尊厳の主体として位置づけ、家制度を解体し、人間の尊厳を担う個人が構成する共同体として、家族を確立することを要請した。現代日本では、核家族化した家族集団のなかで子の人間としての尊厳をいかに確保するかが深刻な問題となっている。親子関係が親の子に対する責任関係であることを軸にして国家・社会による支援体制の整備が求められている。子は、人間の尊厳を担い、自由で独立の存在に成熟する権利を有する主体として法のなかに位置づけられなければならないという。
 なお、弁護士会の「両性の平等に関する委員会」の家族観では、「家からの個人の解放」が未だに主要課題と前提しているように見えるが、現代の「家」制度は「妻の実家」であり、実家依存症の妻に子を拉致された夫たちは、「種馬」「精子提供者」のごとき扱いを受けて、人間の尊厳を踏みにじられているのである。

更新 2013-12-26 (木) 01:45:32
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