制度との闘い
破綻した制度との闘い
娘を奪われた外国人の父親が、失った娘を見つけ監護権を勝ち取るまでの軌跡をThe Japan Timesが特集しました。父親は「日本の家族に関する法律の構造は、そこまで時代遅れで原始的なレベルなのである。」「子供の拉致は、原始的で野蛮な社会であることを示す慣行であるが、日本ではこの習慣が、弾けさせ、きれいに漂白する必要があるにもかかわらず、そのまま保護されている泡の中に今だに残っているのである。この状況が変わるまで、日本で子供を育てるのは重大な危険でしかないのである」と指摘しています。The Japan Timesに掲載された記事の和訳を紹介します。
家族法の裏側
「娘との再会を果たしたリチャード・コーリーの前には、息子たちの監護権を巡るさらに厳しい闘いが待ち受けていた」
The Japan Times掲載本文URL:http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20100928zg.html
2010年9月28日掲載
4月中旬、12歳の渡辺美知子(現在の名前)は不安定な状況に置かれていた。以前、彼女は母親から、もし父親のもとに戻ろうとするようなことがあれば、もう自分の娘とは思わないとはっきりと言われていた。実際、母親から、そんなことをしたら二度と口をきかないと言われていたのだ。
美知子が無理やり連れ去られてから20日目のこの日、母親は用事のためほんの数分間アパートを出なければならないと言った。
母親が玄関を出た直後、美知子は隠しておいた100円硬貨を取り出し、アパートを飛び出して数日前に通りで見つけておいた近くの公衆電話まで走り、電話帳で大急ぎで父親の会社の電話番号を調べた。(父親は携帯電話を持っていない。)が、彼女は会社ではなく自分のもといた家に電話をし、二つの非常に重要な内容を含んだ伝言を残したのだった。その内容とは、「家に帰りたい」ということと、「迎えに来てほしい」ということだった。
翌日、娘を救い出す計画に関して重大な危険性があることについて弁護士と米国大使館の代表から重要な警告を受け、裁判官と家庭裁判所の調査員の1人が、計画が暴力を伴う深刻な事態を招くのではないかという懸念を示していると聞いた後、私は学校の近くの比較的人気のない通りに2時間立ち続け、車の迎えを待っているふりをしていた。通りを上ったり下ったりしながら周囲に注意していたが、道を通り過ぎて行く周辺住民から見たら、東京郊外の高齢者の多い地域の通りに昼間ビジネススーツを着て見知らぬ外国人が立っている光景はいかにも不審に感じられるものだっただろう。警察車両が何回か通りかかったが、最後に通った時、赤信号で私のすぐ横に窓を開けた状態で停車した。その時の反応はと言えば、周囲を見渡して、お互いに何か言葉を交わしながら急に笑い出した。
この晴れた水曜日の午後2時間30分になると、制服を着た学生たちが一斉に学校から出てきた。2人の教師が通りを確かめ、生徒たちに時々往来する車の流れに気をつけるように注意していた。教師の1人は、私がそばにいることがわかると、外国語まで使い始めた。その数分後、娘が学校の出口に現われ、私に向かって大きく目を見開いて微笑み、私たちは一緒に恐ろしい悪夢から逃れていったのだった。
家に帰って数分後に、娘は学校に電話し、もう学校に戻ることはないと告げた。娘は両親の間を行ったり来たりしており、その結果、自分の名前が本当は渡辺美知子ではないことを繰り返し説明しなければならない状況に置かれたため、この時の電話は笑ってしまうようなものだった。
それから4週間後、娘が学校にいた3日の間に撮った生徒写真代の1,285円の支払いを求める教頭先生からの厚かましい電話を受けた。
娘が家に帰って来てすぐに、私の弁護士が警察に電話で娘の最新の所在地を知らせた。すると驚くことに、警察は「彼女は逃亡したんですね」という言葉で応じたのだった。一般的に言って、福祉事務所がまさか市民の勾留に関与するとは予想もできないことであり、それゆえに「逃亡」する必要が生じたことを考えると、警察の表現は実に興味深いものである。
こういった一連の出来事を経て、私たちはついに、日本でよく耳にするこのような馬鹿げた拉致の話にきちんと終わりを告げて、幸せになることができた、と人は思うかもしれない。
渡辺美知子には、間もなくそれぞれ10歳と7歳になるアレックスとデニスという2人の兄弟がいるが、美知子が学校を出た時点で、2人とも福祉事務所が管理する周囲から隔絶されたアパートで母親と暮らしていた。この兄弟も改名しており、長男は「アレックス」という西洋人の名前から「昭一」という日本人の名前になった。
美知子が自由の身になった直後、2人の兄弟は施設に戻され、さらにまた改名されたのだった。
3月下旬、子供たちが母親に無理やり連れ去られたことを知ってから2日目の日に、私は家庭裁判所に対して、子供たちの監護権の早急の返還を要求した。直近の審理の予定は4月中旬であり、母親に連れ出されてから18日目のことだった。この審理で、裁判官は2人の家庭裁判所調査員に対して、両親と子供たちに別々に聞き取り調査を行うように指示した。
その数日後に、娘と私は聞き取り調査を受けた。娘の調査時間は約2時間で、私は2時間半だった。面白いことに、私に対する聞き取りでは、調査員は娘が帰って来た後の家での普段の暮らしについての質問しかしてこなかった。実際、私が話題を、子供たちが連れ去られる前の普段の暮らしについての話に移し、自分が積極的に子育てに励んでいたことを話そうとすると、調査員たちは私の話をすぐに遮ろうとするのだった。
監護権に関する決定は、連れ去りから1カ月以上経た4月の終わりまでに下される予定だったが、ゴールデンウィーク直前の4月28日の午後になって、母親が長い反論を提示してきた。
4月30日の法廷では、この母親からの反論が改めて出されたばかりであり、2人の兄弟が「忙しくて」まだ聞き取り調査を受けていないという理由で、決定を下すには適していない、と裁判官は告げた。(2人の兄弟は学校を出て、既に15日間保護施設に入っており、母親もその間に有給休暇で教師の仕事を休んでいたのである。)すると、私が離婚と全面的な法的監護(監護権を含めた親権)を申請した約4カ月後に、母親は子供全員の監護権を要求し、新しい裁判の予定が5月の終わりに決まった。それによって、私はさらに2カ月間、2人の息子と離れなければならなくなった。
この5月の審理では、私に対する裁判官からの質疑は約1時間であり、母親は約45分だった。元妻は、2007年から別の男性と交際関係にあること、精神科の診療所での治療を求めていること、また元夫と子供たちに対して虐待を行っていたことを認めた。さらに、2人の息子がほぼ毎日父親と行っていた30分間の英語の読書が、息子たちの日本での学校生活に悪い影響を与えているという不満も表明したのだった。
すると、裁判官は、子供と両親に加えて、学校や児童相談所、警察の職員にも聞き取り調査を行った2人の家庭裁判所調査員の調査結果が6月上旬に発表される予定であり、両方の調査員が作成した意見書が6月の終わりに提出された後(母親による連れ去りから3カ月後)、決定が下されることになると述べた。
それから、2人の息子たちに対する「聞き取り調査」が娘に対する2時間の個別の質疑応答とは大きく異なるものだったことに、私は気づいた。家庭裁判所調査員は息子たちの新しいアパートを儀礼的に訪問したのだが、そのとき、10歳になる息子は隣の部屋を歩き回りながら、調査員たちの様子をうかがっていた。調査員の1人が10歳になる息子に話を聞こうと近づいてくると、母親が留守の中で、5週間以上前に3日間だけ通った学校での友達のことについて尋ねたのだった。この学校で、息子は違う名前を使うように強いられ、自分のことについては話さないように言われていた。
そういう事情の下で、息子が何人の親友をつくることができたと考えられるだろうか?何人の友達のことを覚えているだろうか?おかしなことに、これ以上会話を途絶えさせる話題は他になかっただろう。調査員は、息子がこの唯一の質問に顔をしかめたため、それ以上質問を続けるのは適切ではないと考えた、という記録を残している。
ここまで読んだ時点で、日本で何が起こっているのか容易にわかるというものである。日本の家庭裁判所は息子たちを父親と父親の側につく家族から引き離しており、さらに英語や自宅、近所、学校、友達からも引き離しているのだ。日本の制度は明らかに、こういうことが起こるのを容認するようにつくられているのである。上記の人々は誰も子供を元の家に帰してあげようとする気はなく、家庭裁判所の調査員たちの報告書は、実際に触れた話題よりも避けた話題の中に偏見が見られるのだ。
残念なことだが、結局日本では、実際に物理的に子供を捕まえることによってしか、子供の監護権を勝ち取ることはできないのだ。日本の家族に関する法律の構造は、そこまで時代遅れで原始的なレベルなのである。
また、福祉事務所にドメスティック・バイオレンス(DV)の申請を行うだけで、税金で賄われている支援を受けることができ、子供を拉致・監禁して、もう一方の親から子供と自分の身を隠すことができるのだ。
私の判例(および裁判所の裁判官が7月の監護権に関する決定の中に明記している内容)について見ると、元妻は以下の内容を認めていた。
■3年以上にわたる不倫(結婚生活が破綻した理由は、被告による不倫だった)
■不倫相手がギャンブルでつくった借金の返済を助けるために770万円という多額のお金を援助していた。(被告は不倫相手に多額のお金を貸していた。)
■不倫相手とのデートで賭け競馬に出かけた際、子供を連れて行った。
■現在、複数の障害を抱えて薬物治療を受けている。(被告は精神疾患になり、2010年1月かその頃医者の診療を受け始め、子供とのコミュニケーション不足について悩みを抱えている。)
■配偶者および子供に対して肉体的な虐待を加えている。(被告は原告に対して攻撃を加え、子供のしつけとしては許され得ない肉体的な力を行使した。)
実の娘は元妻に無理やり連れ去られてから、彼女のもとから逃げ出し、彼女に不利な証言をした。さらに、元妻は、私が離婚と監護権を申請してから4カ月後になって初めて、子供の監護権を求めたのだった。私は、元妻が撮影の前日に受けたと主張している打撲や怪我の痕など全く見られない彼女の姿を映したビデオ映像も提示した。私たちは、元妻が自分で自分に傷をつけようとしていたという目撃者の証言も得ているのだ。私の裁判における立場はこれ以上強くなりようがないのではないか。
にもかかわらず、裁判官は私に対して娘の監護権を認める際、元妻に対して息子たちの監護権を認めたのだった。その理由は、「息子たちが現在暮らしている状態に大きな問題はないから」というものだった。この論理から類推すれば、もし私が娘を救い出すことができなかったとしたら、裁判官は3人の子供たち全員の監護権を元妻に認めていたのではないか、と考えられる。さらに、もし子供たち全員が自由の身になることができていたとしたら、裁判官は私に対して子供たち全員の監護権を認めていただろう。
日本の家庭裁判所は、未発達の制度を洗練されたもののように見せかけるための単なるうわべだけのものなのである。
人をからかうのもいい加減にしてもらいたいものだ。日本では、「子供の所有」は常に「子供にとっての最大の利益」よりも上に来るものであり、これは特に、「子供にとっての最大の利益」が全く考慮されない場合において言えることである。片方の親が立証もせずにDVの訴えを起こしさえすれば、子供を秘密の場所に隠すことができるような制度に多額のお金をつぎ込んでいるこの国は、実質的に子供の拉致を共謀して行っているのと同じことである。
裁判所の決定が下されてから1週間後(元妻による娘の連れ去りから4カ月後)、法廷で調停の最中に、私は裁判官に対して息子たちに会いたいと訴えた。すると、裁判官は、「それはまだ時期尚早だ」と答え、悲しそうな表情を見せた。
日本が「国際的な子の奪取の民事面に関する条約(ハーグ条約)」を最終的に批准すれば、この国の家族に関する法律の構造を蝕んでいる拉致の文化を終焉させる強制力を持った要となるだろう、と多くの外国人は考えているようである。が、そういう人たちに目を覚ましてもらいたい。
拉致は、日本特有の文化的な腫れ物とも言えるものであり、立証されていないDVの訴えという税金で支えられた抜け道によって、親の援助を必要とする無力な子供たちを連れ去ることができる状況が変わらない限り、子供の返還を謳ったハーグ条約の条文をいくら引用しても、その第13条によって事態は簡単に覆されてしまうのである。第13条には、「返還することによって、子供に肉体的・精神的な害悪をもたらすか、さもなければ子供を耐えがたい状況に置くことになる」危険がある場合、子供を返す必要はない、と規定されている。
日本がこの条約の締約国となる前の段階においては、日本で国際結婚し、離婚した外国人には2つの選択肢があるだろう。子供を日本から出国させるか、日本国内で子供が拉致されるのを傍観するかのどちらかである。条約締結後には、選択肢はただ1つだけとなる。
2002年に米国の最高裁判所で下された判決(In re Stanford)の中で、ジョン・ポール・スティーブンス判事は故アール・ウォーレン連邦最高裁判所長官の言葉を引用し、残忍で異常な刑罰に反対する次のような記録を残している。「これは過去の遺物であり、成熟してゆく社会の進歩を示す品位という進化的基準とは相いれないものである。我々は、この恥ずべき慣行に終わりを告げるべきである」今日まで残っている子供の拉致に対する日本の資金提供や制度上の援助についても、同じことが言えるのではないか。
子供の拉致は、原始的で野蛮な社会であることを示す慣行であるが、日本ではこの習慣が、弾けさせ、きれいに漂白する必要があるにもかかわらず、そのまま保護されている泡の中に今だに残っているのである。この状況が変わるまで、日本で子供を育てるのは重大な危険でしかないのである。
破綻した制度との闘い
「娘を奪われた父親が、失った娘を見つけ監護権を勝ち取るまでの軌跡を語る」
The Japan Times掲載本文URL: http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20100921zg.html
2010年9月21日掲載
7月、東京家庭裁判所は米国人である私に、13歳の娘の監護権を認めてくれた。その120日前に、娘は日本人である私の元妻が連れ去ったのだった。妻は東京の公立学校で教師をしている終身勤続の公務員である。今回の決定は、日本の家庭裁判所が日本人の妻に無理やり引き取られた子供の監護権を外国人の父親に認めた最初の判例となるかもしれない。
時は流れてとなるか?
3月のある日、娘と私が午前中行われた娘の小学校の卒業式から帰宅してほんの数分後に、結婚生活17年の末に1月に離婚した元妻がやって来たのだった。元妻は娘を家の外に誘い出し、強引にタクシーに乗せて区の管轄の福祉事務所に向かい、私がドメスティック・バイオレンス(DV)をしているという訴えを起こした。事務職員の1人がタクシーの運転手に、山手線圏内の新宿区にある保護施設の場所を教えた。
施設での生活は快適なものだった。収容設備は大きく、造りも近代的で、和式の個室が20部屋備え付けられていた。1人用のお風呂のある部屋もあったが、女性の大部分は施設の共同の銭湯を使っていた。施設を利用する20名の女性のうち2人は、身体に明らかに暴力による打撲とわかる傷痕があった。施設では美味しい食事が用意され、1日三食が提供されていた。個人の洗濯物の洗いと乾燥、折りたたみは毎日行われていた。子供たちには平日毎朝、練習帳で国語と算数の勉強をする時間が設けられていた。その勉強の後、午後3頃になるとケーキやクッキーなどのおやつが配られた。これらは全て、2週間にわたって税金で賄われていた。
2週間が過ぎると、母親と子供は東京の外れにある福祉事務所の近くの老人用のアパートに移された。ここの毎月の家賃1万円は政府の補助金制度の下で賄われており、居住者は最長で3カ月の利用が認められている。
福祉事務所は元妻に対して、彼女の名前と娘の名前を非公式に変更するように求め、渡辺美知子という新しい名前となった娘は、アパートのすぐ近くにある学校に入学した。元妻は学校を訪れ、校長先生に娘を外国人の元夫から守ってほしいと訴えた。なんと完璧な人生だろうか!それは少なくとも、福祉事務所が売り込もうとしていた幻想なのである。
家庭裁判所はそれから4カ月間、福祉事務所の混乱を収めなければならない状況となった。つまり、この混乱は、わざわざ税金を使って悪臭を東京の中心から外れにまで広げるという事態であり、それは今日もまだ続いている。
2009年12月、私がこのコラム(2009年11月3日付 Zeit Gist)で、妻との問題によって子供の監護権を失う可能性があることに対する不安について詳述した直後、妻の子供に対する虐待が増し、家族生活はさらに悪化したのだった。実際、12月にある出来事が起こった後、警察が私の家を訪れ、娘を児童相談所に連れて行って、母親の虐待に対処するための最善策を図るように忠告していった。それから数カ月にわたって、娘は児童相談所で2回、公立の小学校で数回聞き取り調査を受けた。
不運にも、娘の連れ去りの日が近づいてくるにつれて、米国人である父親に対する偏見が顕著になり始めた。娘の連れ去りのちょうど2週間前、学校の女性の校長先生が個人的に娘と話をしたが、娘の話では、その時に彼女の言った内容は次のようなものだった。「お母さんは乱暴かもしれないけど、本当はとても良いお母さんだということを先生たちは知っているんですよ。お母さんはいつか変わってくれる。今はただイライラしてるだけなの」
娘の連れ去りの2日前、校長先生と福祉事務所の職員2人が、校長室で娘と話をした。その日帰宅して数時間後に、娘は、福祉事務所の職員の1人(もう1人よりも年上の日本人の女性)と交わした次のような会話の内容を教えてくれた。「その人は、『お父さんとお母さんのどちらを選ぶつもり?』と聞いたから、『お母さんは私を殴るから、お父さんに付いて行きたい。お父さんを選ぶ』と答えたの。そしたら、そのおばちゃんは、『お母さんは料理とか洗濯とか生活の一通りのことをしてくれているから、お母さんを選んだ方がいいと思うよ』と言ったの」
この「忠告」をさらに厄介にしているのは、料理や洗濯についての考え方が昔ながらの典型的な日本の家庭像に基づいているということである。なぜ彼女たちのような「専門家」が、子供を虐待している親との同居を執拗に主張するのか、不思議に思えてならない。元妻が同じ女性だからなのだろうか?同じ日本人だから?同じ公務員だから?この校長先生の過去の立場と同じ公立学校の教師だから?
娘の連れ去りの数時間前、元妻の話では、この校長先生は彼女に対して「あなたが娘さんを引き取ることができると思います」と言って、混乱をさらに助長したという報告を受けている。
その数時間後、元妻は福祉事務所に行って私のDVを訴え、監護権を勝ち取ろうと
巧妙な作戦を仕掛けたのだ。
私はその時点では、まだその計画について気づいていなかった。が、実際のところ、元妻は福祉事務所を訪れ、DVを訴え、ほんの30分間の話し合いだけで直ちに保護施設に連れて行ってもらえるという事態が起こり得るのである。何の証拠も提示する必要がないのである。娘の身体の傷痕を確認することもなければ、危険や侮辱、脅しの証拠も提示する必要がなく、金銭の差し押さえもないのである。とにかく何もないのだ。警察に連絡する必要もなければ、裁判所の仲介を求める必要もないのである。
もし誰かが人間関係の中で脅迫を受けていると感じ、社会に生きる私たちが、その人がその危険な関係から脱却するのを支援する制度を望んだとしたら、それは私たちにとっても良いことである。ところが、虐待を受けている子供の保護施設への入居を許可することによって、日本は親による子供の虐待を助長するような制度をつくり、常識的に考えたら当たり前と言えることだが、そういう親と暮らすことが子供にとって本当に最善と言えるのかどうかを最初に確認することもないのである。これは、日本の家族に関する法律の、今や時代遅れの原始的とも言える構造の中にある大きな落とし穴である。
施設に到着したとたん、娘は家に帰りたいと訴えた。出口に向かって歩いて行くと、施設の職員が慌てて彼女の前に立ち、彼女を力ずくで建物の奥へと連れて行こうとして、30分間にわたって押し問答が続いた。すると、そこで元妻が言った。「ここで一日だけ話をしましょう。そうすればいつでも家に帰っていいから」 ところが、個室に入ると、母親は娘を殴り、「ここはいい所だね」と優しく話しかけたりして、誘導するような質問をしても、背中に隠した録音機に娘の前向きな返事を収めることができないと、イライラするのだった。
弁護士も私も、娘の置かれた危険な状況に気づき、急いで児童相談所を訪れ、娘を保護施設から出すように強く訴えた。すると、相談所の職員は調査してみると答えた。
児童相談所の調査は、娘が会ったことがない相談所の職員2人を保護施設に派遣するというものだった。娘が職員だと気づかないようにするために意図的にそうするのだ、と相談所の所長は言った。その派遣された2人の職員は、娘にも母親にも一度も話しかけることはなく、これも意図的にそうしたのだという説明を受けた。後で私は、2人の職員は娘が家に帰りたがっていることを知っているのかどうか尋ねると、施設職員と相談所の職員は「様々な会話のやり取りをしている」という曖昧な返事が返って来た。
その2週間後、家庭裁判所の調査員が児童相談所を訪れ、私がした一連の質問と同じ質問をすると、所長は事実の隠ぺいをやめ、正直に話し始めたのだった。そう、児童相談所の職員は、保護施設の職員が娘を力ずくで施設に留めていることを知っていたのだ。
児童相談所が米国大使館の代表からの問い合わせに対して行っていた対応が、どんなにひどいものだったか想像できるというものだ。大使館は、二重国籍を持つ私の娘が書き留めた多くの虐待についての証言記録を検証し、直ちに彼女のもとを訪れたいと申し出ていたのだ。これは、領事関係に関するウィーン条約第5条に規定された権利である。ところが、児童相談所は、保護施設が娘の帰宅を阻み、施設入居者は入居の時点で携帯電話を取り上げられていることを十分知っていながら、娘はいつでも好きな時に電話も帰宅もできると大使館側に説明し、私の弁護士にも繰り返しこのような嘘をついていたのだ。
嘘をつかれているとは知らず、私たちは児童相談所に対して、娘に電話や帰宅の権利が許されていることを知らせてほしいと頼んだが、相談所側はこれを拒否し、娘が自分でそのことに気づかなければならないのだと主張した。(これで、なぜ児童相談所が、娘に施設に派遣した職員に気づかれたくなかったのか、娘と話をしてほしくなかったのかの本当の理由が明らかとなった。つまり、相談所側は娘に助けを求めるチャンスを与えたくなかったのだ。)数日間、児童相談所のこのような言い逃れが続いた末、米国大使館は埒が明かない状況に対して、日本の外務省に協力を求めた。それから8日後、外務省は大使館に対して、母親が領事館員の訪問に反対しているとだけ伝えてきた。
娘が家に戻って来てから、私は児童相談所を訪れ、保護施設の職員が明らかに娘が施設から出るのを阻んでいたにもかかわらず、なぜ電話や帰宅の自由について嘘を繰り返したのか尋ねた。
ところが、ひどいことに、私が椅子に座らないうちから、相談所の所長は曖昧な言い逃れの態度を見せ始めたのだ。会議室に入ると、私は終始にこやかな笑顔を浮かべている所長に対して、数日前に娘が家に帰って来たという知らせを聞いているかどうか尋ねると、知っていると答えた。そこで、私はどうやってその情報を得たのか聞いてみると、突然沈黙した後、所長は、それは明かすことができないと語気を強め、まるで核爆弾発射用の暗号を守っているかのような態度を見せた。
私が誰でもいつでも好きな時に電話したり、施設を出たりすることができる自由があることについて触れると、その許可を認める前に、施設の他の利用者に危険を招かないような方法を考えるために議論が必要だ、と所長は答えた。もちろん、このような政治的に正しい答えは、実際に施設を出ようとする者は、それを支援しようとする議論などではなく、それを物理的に阻もうとする力によって明らかに邪魔される結果となるという事実を無視したものである。
米国大使館の職員が保護施設を訪れたいと考えているという知らせを受けた時の施設側の対応も、同様にひどいものだった。施設の職員はすぐに母親に警告を発し、母親は娘に対して、誰に話を聞かれても、自分は施設での暮らしに満足していて、家に帰りたくないと答えるように仕向けたのだった。
施設職員は娘に対して、父親の協力者が近所で偵察しているところを見つけたので、部屋のカーテンを閉めておくように言ったのだった。そう、彼らは私のスパイなのだ。
こんなことをしている施設職員が、何と私たちの税金を使って働いている立派な「大人」であり、こんなゴミを吐き出しているだけなのだ。
家から無理やり連れ去られてから20日後、2度の移住、改名、度重なる虐待を経験し、自らの複雑な境遇について決して語らないように言いつけられた末に、娘は私に救われたのだった。この国家によって作られた地獄、子供に対する支援に溢れんばかりの誇りを持つ日本という国家に潜む恐ろしいどん底から。娘はどうやってそこから逃れることができたのか。
次週に続く。
更新 2010-09-29 (水) 03:53:56
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