民法819条(単独親権制度)改正を求め共同親権・共同監護制度の導入・ハーグ条約締結の推進と活動を行っています

事例集(親子引離し)

単独親権制度は、子どもの連れ去りを助長し、子どもの福祉ではなく、子どもを犠牲にし、精神的な抑圧を与える制度です。これは明らかに人権侵害です。また、子どもから見ると、生活の場から突然親を消し去られるのですから、虐待以外の何ものでもありません。裁判官は、親権喪失理由が無いにもかかわらず、子どもが親元にいないという理由だけで親権を奪いとり、子どもが親と離れたくないという思いをも無視し、引き離すことを平気で行い、これは国家による間接的虐待と言っても過言ではないのでしょうか。
また、最初に子どもを連れ去った親は何ら処罰されず、容認され、逆に共同親権下にある子どもを連れ去られた親が連れ戻すと、未成年者略取誘拐罪となるなど、日本の法律の正義はどこにあるのでしょうか。
私達は、日本以外のG7の先進国が採用している世界標準の制度、親子の絆が守られる制度を望んでいるだけなのです。それ以上を望んでいるわけではなく、この問題について、なぜわが国は先進国から学ぼうとしないのでしょうか。
「子の連れ去りや引き離し」は経験した親から子へ、子から孫へ連鎖しています。国内の当事者の多くの事例が証明しています。
このような苦しみが「子どもたちの世代まで連鎖しないように」日本の法制度を変えることが私たち苦しみを背負っている当事者に与えられた使命です。

【事例1 愛知県 30歳代 男性】
「子どもの頃からず~っと会いたかった実の父親。けど会えなかった。一生残る悔いが増えました。父に聞きたい事聞けず、話したい事話せずで時既に遅し。残念です。」
事例1で幼少の頃に実の父親と引き離され、実子とも引き離された父親として紹介した男性が、実の父親を捜しましたが、平成23年の年明け早々に、十数年前に実の父親が死亡していることを知りました。引き離された子どもは大人になっても自己のルーツを捜し続けます。そして実の親にも二度と会えない現実を再度知り、アイディンティも確立できず生きなくてはいけません。子どもが親に会うことすらできない、このような日本社会の異常性を皆さん知ってください。この男性は、電話の向こうで泣き続けました。

子どもの頃からず~っと会いたかった実の父親。けど会えなかった。(涙)

戸籍を辿るとやはり私が3歳の時に母と離婚しており父と離籍していました。
小学生の頃に亡くなった親戚のおばさんに何度か[父があんたを探してるよ]ってそっと聞かされたことがある。忘れられない。けどずっと何も出来ず話せずに来てしまった。

平成21年の年末に我が娘を女房に連れ去られて会えなくなり裁判。初めて親が実の子どもに会えない苦しみもわかった。なので母親には本当に申し訳ないが実父に会わなければいけないと思い自分と母の戸籍を全てさかのぼって実父の所在を捜しました。34年ぶりの再会を夢見て半年間かけひたすらあちこちの役所や役場を渡り歩き、ようやく今日(平成23年初)たどり着いたのですが・・・。
なんと平成10年3月に死亡。そしてその翌日、祖父によって届出され除籍となっていました。

人前にもかかわらず役所で説明された時は思わず[えっ!!]って大きな声が出てしまいしばらく涙が溢れて止まらなかったです。メチャメチャ恥ずかしいけどどうにもならないし。っていうかどうでもいい。

結局、父に聞きたい事聞けず、話したい事話せずで時既に遅しでした。
やはり大切な人には早く会っておくものですね。
どうしよう。

とりあえず今回の件で色々と相談やアドバイスしてくださった方、本当にありがとうございました。心から感謝してます。
自分の存在含め、まだまだどうしても知りたいことが山ほどある。なので今後も引き続き父の親(祖父母)や親類関係を探ってみようと思います。今度は石川県の能登半島らしい。個人情報問題が時々立ちはだかり苦労します。なのでまた助けてください。お願いします。

【事例1 愛知県 30歳代 男性】
「大人に私物化される子どもたち」
幼少の頃に実の父親と引き離され、実子とも引き離された父親であり、子どもの頃には母親の再婚相手の義理の父親に虐待を受けていた当事者の実例です。

私は幼い時に父親と引き離されて「父親」と会えなくなった当事者であり、平成21年12月11日我が子(当時10ヶ月)の娘を妻に連れ去られて「子ども」に会えない父親でもあります。

幼い頃の私は毎日あちこちの親戚の家に預けられ、母は仕事の為か全く会いに来たり迎えに来ることはありませんでした。
独り寂しく毎晩真っ暗な部屋の天井を見つめ『ママに会いたい』『パパは何処にいるの』と泣き叫んでいた時を未だはっきりと覚えており忘れる事はありません。

母は私が小学校低学年の頃と高学年の頃の二度に亘り再婚しました。これを機に私は中学2年頃まで同居しましたが、どうしても両親との歯車が噛み合わず何もかもすべてを振り切って、バイト先の新聞配達店などに居候したりするなど一人暮らしを始めることになりました。

義理の父親からは常日頃から躾と称して怒鳴られたり引っ叩かれたり、それに賛同した母親からも何度も引っ叩かれるなどして、私の訴えは全く受け入れてもらえませんでした。
そして当時いつも母が私に放った言葉は『お前は長男だ。高校卒業してしっかりした大人になって家を継ぎなさい。そこまで育ててやったんだから私の老後は面倒みなさい』でした。

そんな苦痛な日々を送りながらも何とか平成19年10月、職場で出会って2年ほど交際を経た彼女と結婚し、平成20年2月待望の長女が誕生いたしました。
私はこれまでの親子の悲しい出来事を振りほどき、『我が子にだけは決して同じ思いをさせたくない。』そんな思いを強く抱きながら日常の育児は当然のこと、精一杯子どもの養育に専念し愛情を注ぎました。出産後の妻は会社の勤続年数が短く育児休暇が取れない時期もあり、変わりに私自らが育児休暇を取得しお昼休みに授乳をさせる為1日も欠かさず娘を連れて会社へ通いました。

しかしそんな思いもむなしく平成21年12月11日、最愛なる娘を妻に連れ去られてしまい会えなくなってしまいました。
その後、私は必死に相手方に事実関係の確認と話し合いを求めましたが応じることなく平行線をたどり、年明けの平成22年1月2日に九州の宮崎まで行って連れ戻しを実行いたしましたが、相手方の『監護・子の引渡し』訴訟を起こされ仮処分がくだり、平成22年3月9日に強制執行を受け(裁判所の執行官により)再び連れ去られることとなりました。

私は失望しました。
何故私はこれほどまでに実の親や子どもに会えなくなってしまうのか?どうして生きているにも関わらず会えないのか?

私はこれまで母親や妻そしてその家族を恨みましたが、今回の娘を連れ去られた事件をきっかけに矛盾した現制度を知ることによって、私の怒りの矛先は現状の法制度や裁判官・調査官に向かいました。そして現状を正確に見極め判断すると思っていた調査官の調書があまりにも事実では無いこと、無かったことがいかにもあったかのようにつづられており、それを簡単に容認した裁判官が非常に印象的でした。

単独親権制度なんて誰が決めたのか。幼ければ母親のもとで育つことが幸せなんて誰が決めたのでしょうか?
必ず片親の元で育てられる子どもはやがて私物化されます。親の幸福を手伝いし見守る為だけに生まれたわけではありません。
子どもにも家庭を持ち我が子とともに幸福を追求する権利があります。それらを円滑に進めていく為にも、子どもは両親から愛され、子どもがいつでも両親に愛情を求める環境が必要であると私は思います。

なので私は現制度が許せません。一生許せません。
子どもの人権を無視し、片親疎外を生み出す現制度。

私は一生を費やしてでもこの問題に取り組み改善を求め、親子の支援向上に務めて参りたいと思っています。

【事例2 米ノースカロライナ州 20歳代 女性】
「母と会えずつらかった」~米国人女子学生の書簡
「国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」の加盟を日本に引き続き強く求めていく方針をルース米大使は平成22年9月1日、東京新聞への寄稿文で表明しました。記事には幼い頃に両親の離婚でエジプトへ連れ去られ、母親を知らずに育った米国人女子学生の書簡が掲載されています。一方の親と引き離された子どもの気持ちです。国内の連れ去りに対する子どもの思いも米国人女子学生と同じです。(新聞記事 

米ノースカロライナ州の名門デューク大大学院で国際開発政策を学ぶライラ・エルメルガーウィンさん(25)。3歳の誕生日を迎えようとしていた22年前の5月、米国人の母親と離婚したエジプト人の父親によって、母親から引き離された。
 父親のことは世界で最高の父だと思って育った。教育熱心で、欲しいものは何でも買ってくれた。面白く、友だちにも優しかった。
 一方、母親については「母が悪い人だから父が私を連れ去ったんだ。」何度もそう思おうとした。しかし、成長するにつれて母への思いを抑えることは難しくなった。生きているなら、今どこにいてどんなにおいがして、どんな話し方をするのだろう。病気の時や悲しい時、どうしてそばにいて私を抱きしめてくれないのか。父親に聞きたかったが、父の気持ちを思うと聞けなかった。
 13歳の時、エジプトを訪ねてきた母と再会を果たした。そしてデューク大大学院に進んだ23歳の夏からもう一つの祖国米国で暮らしている。
 ライラさんが胸に秘めてきた思いを告白する気持ちになったのは、インターンとして来日し、米国大使館が発行するニュースレター「アメリカン・ビュー」を読んだことがきっかけだった。国際的な児童連れ去りに関する問題が特集されており、100人を超える子どもが米国から日本に連れ去られてきていることを知った。
 ルース大使に自らの体験を伝えた。「私と同じ心の痛みと悲しみを持つ子どもたちの苦しみを終わらせて」とライラさんは訴える。
 ただ条約加盟をめぐって日本国内にさまざまな議論があるのも現実だ。子どもに対する主要な決定を行う権利などを両親に平等に与える「共同親権」の制度を採用する国々が多い欧米に対し、日本は単独親権が原則。加盟には国内法の改正が必要だという指摘があり、法律面での課題も残る。これに対し、ライラさんは「私にできることは母親から引き離されて育った子ども時代の経験を伝えることだけ」と話す。
 自分と同じ思いを味わっている子どもたちが別れた親と再会できますように-。それが、今年の誕生日に祈った願いだった。

【事例3 米ノースカロライナ州 20歳代 女性】
親から引き離された子どもの物語~事例3で紹介したライラ・エルメルガーウィさんが米国大使館発行のAMERICAN VIEW - WINTER 2012に投稿した記事です。

親から引き離された子どもの物語
 私が4歳の頃のことでした。ある日私は、父によそ行きの服を着せられ、祖父母の家に連れて行かれました。そこには見知らぬ美しい女性がいて、兄はその人を見るなり駆け寄って抱きつきました。私は父から、その女性が「私の母」だと聞かされました。

 当時私は英語を話せなかったので、母の言うことを理解できませんでした。彼女は私を抱きしめようとしましたが、私は怖くなり泣き出して逃げてしまいました。父は私を部屋に連れ戻そうとして、大丈夫だよと言い、良い子にして部屋に戻り、米国から私に会うためはるばるやって来た母としばらく一緒に時間を過ごしなさいと諭しました(当時私たちはエジプトに住んでいたのです)。それでようやく母のところに戻って一緒に時間を過ごしました。母の言うことが理解できなかったので、うれしかったのは母がくれたおもちゃだけでした。その日以来、私が母に会うことは長い間ありませんでした。

 この直後から私は「連れ去り」、「子どもたちの母親」、「出国」、「弁護士」、「米国大使館員」について話す父と父の家族の会話に注意を払うようになりましたが、それがどういう意味を持つか全く分かりませんでした。父は私を母の祖国である米国から連れ去ったことを話してくれ、母は私を父から引き離すつもりなので、私を二度と母に会わせるつもりはないと言いました。エジプトを出るまでの数カ月間、私たちはおびえて暮らしました。

 私たちは母や米国当局から逃れるため、3カ国を転々と移り住みました。このような目に遭ったので、最初のうちは「母」に対し怒りと憤りを覚えました。父をとても好きだったので、彼から引き離されたくありませんでした。その後、成長するにつれ、この怒りや憤りの感情に見捨てられたという気持ちや悲しさが交じり合い、母との再会を願うようなりました。母親と住んでいる友達をうらやましく思い、自分も母のことをもっと知りたいと思いました。当時、母について私が知っていたのは名前と、母と会った日の薄れ行く記憶だけでした。でも母についてそれ以上聞けませんでした。

 私には母親がいるとはどういうことなのか全く分かりませんでした。子ども向けの本を読む時にはいつも、他の子どもたちのように妖精とはどのようなものかと思い巡らすのではなく、母親がいるということを本の登場人物はどう感じているのだろうと考えていました。私はいつも、母親がいることは世界で最も素晴らしいことに違いないと思っていました。一方で母についての歌や母の日は大嫌いでした。私は今もそうですが、当時父を深く愛していましたし、また彼が私をこよなく愛していることも知っていました。ですからその父が私を傷つけることをするなどと考えたくありませんでした。父が私を母の元から連れ去ったのには相応の理由があるといつも考えていました。でもいつも寂しさと物足りなさを感じ、それをすべて母のせいにしていました。

 13歳の時に、母が兄と電話で連絡を取り合っていると知るまで、私は母に対するこのような複雑な感情を抱いて生きていました。私は兄に対して強い怒りを覚えました。彼が父を裏切り、「流浪」の身となり(当時はそのように感じていました)隠れるようにして生きてきた年月を無駄にしたと思ったからです。ある日兄の部屋に行くと、彼は母と電話で話しており、母が私と話したいと言っていると言いました。私は仕方なく受話器を取り、初めて母の声を聞きました。母は長年、私を探し続け、ようやく私の居所が分かってうれしいと言いました。その頃は私も英語が少し話せたので、彼女が言うことを理解しましたが、私は泣くだけで何も話せませんでした。

 その後、何日も何カ月も私は悩みました。母と話すかどうかを、私でなく誰か他の人が決めてくれればいいのにと思いました。また父を裏切っているようにも感じました。当時、父が事情を知り、私に母に会いたいかどうか尋ねていたら、父の気持ちを傷つけないよう「会いたくない」と答えたでしょう。母を私の人生に受け入れるかどうか考えられるようになるまでにも長い時間がかかりました。そして母には会えないと思いました。結局、彼女は私にとって見知らぬ人でしかありませんでした。しかし母の忍耐力と粘り強さのおかげで、とうとう私は彼女に会うことに同意しました。母がエジプトに来たので、私は父の家を抜け出し、長年会うことのなかった母と久しぶりに再会しました。

 もっともここでお話ししたいのは私のことではありません。私は今や26歳の成人で、母とは12年前にエジプトで再会して以来、連絡を取り合っています。大学時代は毎年夏を母と過ごしました。母から引き離された後、子ども時代にさまざまな精神的苦痛を経験し、あらゆる苦しみや苦悩を黙って耐えたにもかかわらず、私は幸運です。今は母を知っていますし、以前いつも願ったように、母は私の人生のとても大きな部分を占めています。母親なしで過ごした歳月は決して取り戻せませんが、母親のいない今の自分は考えられません。

 ここでお話ししたいのは、人生から片親を奪われ、毎朝目覚めると私が子ども時代に感じたのと同じつらい気持ちになる、日本の多くの子どもたちのことです。昨年、在日米国大使館でインターンをしている時に、この事実を知りショックを受けました。親による日本への、あるいは日本からの子どもの連れ去り事件の今後の発生を防ぐため、日本がハーグ条約に加盟した場合の影響を前向きに検討していることも知りました。

 一方で過去に日本に連れ去られた多くの子どもたちが、大人になるまで自分の国に戻れなかったり、残された親に会えないことを知り、悲痛な思いにかられました。こうした子どもたちは、私が経験したような苦悩の中で、つらい毎日を過ごし、無力感を感じながら成長していかなければなりません。私の母は何年もの間私を探し続け、最後に私を見つけ出すことができたので、私たちは共に幸運でした。日本で私が出会った、置き去りにされた親御さんの中には、連れ去られた子どもを見つけるという希望を失いかけている人もいました。十代の時に母に会うために、父の家をこっそり抜け出さずにすめば良かったのにと私は思います。連れ去られた多くの子どもたちが親と再会し、家をこっそり抜け出さなくても苦しみを終わらせることができるよう、日本の制度に選択肢が増えることを願っています。

【ライラ・エルメルガーウィさん】
2010年夏、在日米国大使館でインターンを務め、現在は米国ワシントンDCの地球環境技術財団で、世界各地での持続可能な開発の推進を担当。アインシャムス大学(エジプト・カイロ)で日本語の学士号、デューク大学(ノースカロライナ州)で一般教養・国際開発政策の修士号を取得。

更新 2012-03-31 (土) 01:14:44
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