民法819条(単独親権制度)改正を求め共同親権・共同監護制度の導入・ハーグ条約締結の推進と活動を行っています

親権制度

「幸福追求権」を軸に紛争解決を

平成30年1月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.幸せのかたち
日本国憲法には、意表をつかれる「幸福」という言葉が書かれている。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という第13条である。しかし、「幸福追求権」を明示的に認めた判例は見当たらない。それは、「幸福」という概念が多分に私的で主観的なものだからかもしれない。私は、離婚後の単独親権強制(民法819条)を違憲とする根拠の一つに「幸福追求権」を主張してきたが、日本の司法はまともに受け止めようとしない。「幸福」について、法的感受性が欠如しているのである。
新年早々、朝日新聞で「幸せのかたち@世界」が連載されている。1月6日には、インドネシアの16歳の新郎と71歳の新婦の結婚が紹介されている。55歳という年歳差も度肝を抜かれるが、同国の法律が定める結婚最低年齢の「男性は19歳、女性は16歳」も満たしていない。それでも結婚できたのは、同国の法律には「信じる宗教に基づく結婚は合法」との条文があり、イスラム教に基づく「ニカシリ」(秘密婚)という(イスラム法には結婚年齢の明確なルールがない)。同国での結婚には立会人が必要で、新郎は地区長を何度も訪ね、「認めてくれないなら2人で死ぬ」と訴え、地区長は村内の説得に乗り出した。そして、村をあげての盛大な結婚式が行われ、式場に自宅を貸した村民は「こんなに純粋な愛がこもったニカシリはない。村の誇りです」と話す。なお、記事では、これを「法律と現実のギャップを埋める超法規的な事実婚」とされているが、それは違うと思う。同国の法律で許容された結婚であり、結婚の要件である立会人もいるのだから、法律婚であろう。ちなみに、「未婚で同棲を続けるよりは」と、親族も賛成している。
これに対し、日本の場合、「婚姻の要件」として、婚姻適齢(民法731条)、重婚の禁止(同732条)、再婚禁止期間(733条)、近親者間の婚姻の禁止(734条)、直系姻族間の婚姻の禁止(735条)、養親子等の間の婚姻の禁止(736条)、未成年者の婚姻についての父母の同意(737条)、成年被後見人の婚姻(738条)、婚姻の届出(739条)、婚姻の届出の受理(740条)、外国に在る日本人間の婚姻の方式(741条)が定められているが、重要なのは、「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。」(739条1項)としたうえで、「婚姻の届出は、その婚姻が第731条から第737条まで及び前条第2項の規定その他の法令の規定に反しないことを認めた後でなければ、受理することができない。」(740条)とされていることである。すなわち、国家が定める「法律婚」のみが結婚とされ、前掲のケースが法律婚として認められることはあり得ない。しかし、憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると定めている。それにもかかわらず、戸籍制度で個人の自然な愛情や結婚意思が圧殺される日本の現状は、「幸福追求権」など無に等しい。「法律婚優遇」制度は、「個人の尊重」と両立しない冷酷で非人間的な制度であることを、「幸福追求権」は教えている。

2.「幸福」を基準にした見直し
現行法や実務を「幸福」という見地から見直してみよう。その作業を通じて、憲法が定める基本的人権としての「幸福追求権」の輪郭や中身が明らかになると思われる。
たとえば、「婚姻中は父母の共同親権」とする民法818条3項についていえば、単に男女平等原則の帰結ではなく、父母にとっても子どもにとっても「共同親権=幸福」とするのが法意と解される。そうであれば、「婚姻中」に限らず、未婚でも、離婚後でも、父母の共同親権が幸福とされない理由は想像できない。むしろ、未婚や離婚で「単独親権」が法律上強制される方が、不幸ではないか。単独親権制それ自体が憲法14条の両性の平等と両立しないが、それを法律で強制することは、明らかに「個人の尊重」や「幸福追求権」を侵害する。すなわち、憲法13条では、単独親権制それ自体というよりも、「法律による強制」が問題なのである。そう考えると、紛争解決の多様性と当事者の主体性・主導性が見えてくる。法律による単独親権強制がダメだといっても、「それではどうするか?」という解答は出てこない。それぞれのケースで、子どもを含む当事者全員にとって「幸福度」の高い解決を創造するほかに方策はないのであり、それは裁判官の権力行使によって実現できることではない。
ところで、「幸福ってなに?」と各人が考えないと、そしてそれを各人が見つけないと、そもそも「幸福追求権」が実存し得ない。前掲記事では、「幸せって?」との問に、新婦は「彼が隣にいて、私を『アデ』(妹)と呼んでくれたらどんな時でも幸せ」と答えている。
「幸せのかたち」は、人それぞれである。それでも「幸福追求権」が憲法で基本的人権として保障されているのは、「誰でも自分の幸福を追い求めることができる」という、人間性に対する信頼ないし肯定的理解があるからではなかろうか。紛争当事者間で、相手方を不幸にすれば自分が幸福になれるとは考えられない。自分が幸福になるために、結果として相手方を不幸にすることは避けられないかもしれないが、だからこそ、子どもを含む当事者全員にとって「幸福度」の高い解決を創造する努力を惜しんではならない。実際にも、そのような努力によって当事者それぞれが「幸せって?」を考え、それなりに開かれた将来を生きるステップを踏み出すことができる。「幸福追求権」こそ人間賛歌であり、私たちは、これを活用して幸せになりたいものである。

「単独親権制」の正体

平成29年1月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.民法で強制される「単独親権制」
民法818条1項は「成年に達しない子は、父母の親権に服する。」と規定し、同条3項は「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」と規定している。これに対し、離婚後は「父母のどちらか一方」を親権者と定めることが強制され(同法819条1項2項5項)、父母の協議で共同親権とすることはできないのである。このような絶対的単独親権制は、家族生活における個人の尊重と両性の本質的平等を規定した憲法24条に違反する。このことは、親権を失う側からすれば、当然の論理であろう。
ところが、現在の単独親権制は、むしろ憲法24条が規定する「個人の尊重と両性の本質的平等」に適うものとして、戦後の民法改正によって生まれたのである。すなわち、戦前の民法では、離婚後も「家ニ在ル父」が親権を行使するとされていて家父長的性格が濃厚であったところ、それが憲法24条に反するというので、「父母のどちらか一方」の単独親権とすることで男女同権が貫徹されたという。ここでは、父母のどちらか一方が親権を失うことについて、「個人の尊重」や「両性の本質的平等」に反するとは考えられていない。
2.「選択的夫婦別姓」論との比較
「単独親権制」をめぐる憲法論の論理構造は、既視感がある。そう、「選択的夫婦別姓」論である。こちらは、離婚ではなく婚姻の場面の問題で、婚姻の際に「夫または妻の氏を称する」(民法750条)という「夫婦同氏強制」が「個人の尊重」や「両性の本質的平等」に反すると主張されている。すなわち、同氏強制により旧姓を失う側からする人権の主張である。しかし、これも、戦前は「家長」の氏であったのを、「夫婦のどちらか一方」の氏に、憲法24条を根拠に改正されている。
ところで、婚姻の場合は、法律婚でなくても、「準婚理論」で保護される事実婚もある。重婚的事実婚の場合ですら、非嫡出子差別は許されないし、重婚的内妻についても遺言や贈与により財産譲渡が可能である。遺族年金に至っては、「生計を同一にしていた」との要件で、正妻ではなく内妻に給付される。すなわち、「事実婚」は、「夫婦別姓」論者がいうほど「不利益」を被らないのである。何よりも、「子どもの姓」を、子どもが生まれる都度、父母で決めることができる。かように、「同氏強制」を避けるためなら、「事実婚」を選択できる。
これに対し、法律婚を解消する離婚の場合、単独親権を回避する方途はない。しかも、昨今の離婚紛争では、夫婦のいずれも子を手離したくないから、子の親権・監護権をめぐって熾烈な争いになり、裁判所に事件と当事者の怨念が充満している。そして、破綻主義離婚では、子をめぐる熾烈な法的紛争の推移とともに破綻するから、これまた離婚判決により離婚が強制される。このような目に遇った当事者は、なぜ自分が裁判所からこれほどの苦難を強いられるのか、到底納得できないであろう。
3.親権を制限する法律上の根拠
民法820条は「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」としている。そして、家庭裁判所が父または母の親権喪失審判をできる場合の要件として、虐待、悪意の遺棄、親権行使が著しく困難または不適当であることにより子の利益を著しく害することをあげ(同法834条)、親権停止については、親権行使が困難または不適当であることにより子の利益を害することである(同法834条の2)。なお、親権喪失・停止の要件が専ら親権行使としての監護にあるから、親権とは別に監護権だけを喪失・停止させることはできない。そうすると、民法が定める親権喪失事由はおろか親権停止事由もないのに、「子の福祉」を理由にして片方の親の親権を喪失させる単独親権制は、民法体系に整合しない。
さらに問題なのは、離婚前の別居した夫婦間で子の監護に関する紛争が生じた場合、父母の共同親権に服する子について、家事事件手続法に基づき「監護者指定」「子の引渡し」を命ずる保全処分や本案審判がされることである。そこでは、「監護者指定」は「単独監護者指定」であり、片方の親の監護権を喪失させることによって、他方の親への「引渡し」を命ずることを可能にする。そして、「子の引渡し」を命ずる保全処分や本案審判は、当該親の親権を実質的に制限する権力的効果を有しているが、その実体法上の根拠は見当たらず、法定手続を保障した憲法31条に違反する。
また、児童福祉法でも、「児童の福祉」の名の下に、親権行使が容易に制限されている。たとえば、同法33条の一時保護は親の同意がなくても行える強制処分であるが、保護した児童に対し、児童相談所長は、監護、教育および懲戒に関し、その児童の福祉のため必要な措置をとることができるとされている(同法33条の2第2項)。また、同法47条3項でも、児童施設に入所中の児童について、親権者がいても、施設長は、監護、教育および懲戒に関し、その児童の福祉のため必要な措置をとることができるとされている。これらの規定により、現実には、親権の内容である監護、教育、懲戒の権限が親から剥奪されて児童相談所長や児童施設長に移されるに等しい。しかし、なぜそのような権限移転が可能になるのか民法には規定がなく、専ら「児童の福祉」が「錦の御旗」になっている。
4.「国親思想」の克服 ― 親の「子育てする権利」の確立
私が日常的に実務の中で感じている「不思議」は、一応、形式的には法律に基づいて行われているにもかかわらず、法適用の結果としてもたらされる「現実」があまりに法の理念とかけ離れていて、当事者にとって耐えがたい苦しみになっている現象である。「単独親権制」も「監護者指定」「子の引渡し」も、裁判所が「子の福祉に適う」として国家権力を行使している。児童福祉法の措置でも、「児童の福祉のため必要」として公権力が行使される。
しかしながら、「子の引渡し」の執行の現実をみると、こんな裁判をした裁判官には子どもがいないのか?どんな子育てをしているのか?と疑うほど「顔が見えない権力者」である。そして、親子ともども著しい心的外傷体験となり、容易に回復できない。
ところで、「選択的夫婦別姓」論者は、論理が共通する「単独親権制廃止」ないし「離婚後も共同親権制」に賛同するかというと、現実にはそうとは言えない。むしろ、単独親権制維持論者が多いように思われる。それは、なぜか? 答えは簡単である。幼い子どもを現に監護するのは主に母親であり、戦前は虐げられていた母が離婚後の親権者になる道が開かれ、男女同権になったからである。「選択的夫婦別姓」論は、法律婚制度の仲間入りを主張するところがミソで、あたかも「名誉白人」を想起させるが、婚姻時の氏の選択で「弱い立場にある妻」が法律婚による国家の保護を要求する。この点が、「弱者である子ども」の福祉を国家が保障するという「国親思想」と共通する。
しかしながら、事実婚によって旧姓を維持できるのに、法律婚の保護を受けるために旧姓を棄てざるを得ないという女性が、社会制度を変革する力を持っているとは思えない。また、単独親権制廃止をともに闘おうとせず、むしろ単独親権制を「女性の既得権益」として維持しようとしているように見える。一方、「事実婚」の場合は、最初から父母のどちらか一方の単独親権が強制され、父母の共同親権にする方途はない。このことに照らすと、旧姓を保持するために「事実婚」を選択した夫婦なら、「単独親権制廃止」に共感するのではないかと思われる。
憲法24条が規定する「個人の尊重と両性の本質的平等」という理念は、「国親」をアテにしないで自立した個人にしか実現できないものである。そして、未婚・離婚にかかわらず、父も母も「子育てする権利」を公権力に奪われないようにすることか出発点ではなかろうか。すなわち、「子の福祉」の名による公権力の介入と引換に「私生活の自由」が奪われることを悟るべきである。

「夫婦別姓」と「単独親権」

平成27年11月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.今月4日・・・

今月4日、「夫婦別姓」訴訟で最高裁大法廷の弁論が開かれた。朝日新聞(5日朝刊)によれば、弁論後の記者会見で原告団長が「名前は、私にとってはどうしても譲れない。命そのものなんです。」と訴えた。旧姓を名乗るため、当初は事実婚。子どもが生まれるたびに結婚と離婚を繰り返し、夫の籍に入れた。最終的には法律婚にしたが、「愛し合う2人に別姓での結婚を認めてほしい。」という。

しかし、そこには「法律婚でなければ結婚に非ず」という、事実婚差別意識が透けて見える。子どもを父親の戸籍に入れるためだけに結婚・離婚をする理由はない。事実婚でも、非嫡出子ではあるが、子を父の戸籍に入れることはできる。結局、「自分の子を非嫡出子にしたくない」というだけではないのか? しかも、父の単独親権を容認するのだから、看過できない。

2.「事実婚」の不利益・・・

「事実婚」の不利益として挙げられるのは、夫婦で共同親権を持てない、法定相続人になれない、配偶者控除など税金優遇を受けられない、生命保険の受取人や住宅ローンの連帯保証人に当然にはなれない・・などである。しかし、これらはいずれも法律婚優遇策であり、「逆差別」というべき代物である。「差別をなくせ」というなら、このような法律婚優遇策をこそなくすべきである。

一方、「夫婦別姓」は「家族の多様性」という文脈で語られることもある。しかし、今や「同性婚」こそ「多様な家族の在り方」として市民社会に認知されようとしている。性転換手術などせずに、あるがままの同性同士が「家族」として暮らしている。「同性婚」に「法律婚」の道が拓かれるのは頗る困難であるが、そんな法制度と関係なく、自己の生き方として事実上の「同性婚」を実行している。

同性カップルも、「事実婚」の不利益を共有しているが、こちらは「別姓」で解決できるものではないから、目前の「不都合」「不具合」「生きにくさ」を具体的に克服していくことに注力する。それこそが、社会のシステムを変えていくことにつながる。現に、生命保険受取人や携帯電話の「家族割」など、企業の対応が拡がっている。むしろ、法律婚として別姓制度をとりいれることは、事実婚差別を強化するだけではないだろうか。

3.今月2日の・・・

今月2日の朝日新聞朝刊によれば、「結婚すると夫婦が同姓を名乗るよう法律で義務づけている国があるかどうか」という糸数慶子参院議員の質問主意書に対し、政府は、「現在把握している限りでは、我が国のほかには承知していない」と答弁書で明らかにしたという。

しかし、外国の制度として紹介されているのを見ると、中国・韓国は完全別姓、タイ・ドイツは、夫または妻の同姓と各自の別姓を選択できる。ドイツは、それに加え結合姓も可能とされ、ロシアは、結合姓も含む4種類の中から選択する。
興味深いのは、イタリアとフランスである。イタリアは、夫は自分の姓、妻は結合姓。フランスは、各自の姓(つまり完全別姓)であるが、妻は夫の姓を名乗ることも可能とされている。

なお、フランスドイツでは、第1子の非嫡出子割合は過半数である。おそらく、「子どもを非嫡出子にしないために法律婚する」などという観念はないのではないのだろうか。すなわち、個人の幸福追求は、法律婚制度自体を突き破るのである。

一方、大法廷で弁論した弁護団事務局長打越さく良弁護士によれば、「結婚により96.1%の女性が夫の氏になり、事実婚では経済的負担があるなど女性のつらい現状を涙をこらえて訴えた」という(5日しんぶん赤旗)。96.1%の妻は、経済的負担を回避するために夫の氏を選んだわけではないはずである。選択的夫婦別姓制度の導入に賛成する女性たちも、多数派は、自分が結婚する際には夫の氏を称すると答えている。

4.民法は・・・

民法は、「婚姻中は父母の共同親権」とし、未婚や離婚は単独親権である。未婚の場合、民法の規定では母が原始的単独親権者である。離婚の場合の単独親権者について統計の正確な数値を知らないが、8割以上(9割?)が母の単独親権になっているのではないかと思われる。

そして、母子家庭の「子どもの貧困」が社会問題となっている。ちなみに、1980年にカリフォルニア州で共同養育法が制定されたのは、父母が離婚しても子どもの養育に責任をもたせるためであった。また、子どもの虐待死事件があると、児童相談所の責任が問われたりするが、児童相談所がやっていることは、「親子引き離し」「長期施設収容」にすぎず、子どもに家族的環境を与えることはできない。

ところで、「子どもの権利条約」で謳われているのは、子どもは家族的環境の中で両親に養育される権利を有するということであり、国は、その実現のために親を援助する責務がある。しかるに、日本の児童相談所や家庭裁判所さらに弁護士は、全く条約を無視している。「家族の多様性」が子どもを犠牲にすることがあってはならない。そのためには、父母の婚姻関係の有無にかかわらず、父母の共同養育が法的な責務とされ、国の有効な「子育て支援」策が講じられることを願ってやまない。

憲法と「法律婚主義」「夫婦同氏」「単独親権」

平成27年7月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.「法律婚主義」は合憲か?

日本国憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と定めている。すなわち、婚姻を成立させるには、「合意」の外に何もいらない。

ところが、民法では、戸籍法の定める「届出」をし、その届出が法令に違反していないとして「受理」されて初めて婚姻が成立する(民法739条、740条)。そして、婚姻適齢(男18歳、女16歳)、重婚禁止、女の再婚禁止期間、近親婚の禁止、直系姻族の婚姻禁止、養親子等の婚姻禁止、未成年者の婚姻に父母の同意・・と色々ある。これでは、「合意のみ」で婚姻が成立するという憲法の規定に反している。

一方、憲法は「同性婚」を排斥しているのだろうか?これについては、「性同一性障害者性別取扱特例法」により性転換した者は「異性」として法律婚が認められる。しかし、生物学的な性別が変わるわけではないから、「同性婚」とも見ることができ、憲法は排斥していないと解することになる。なお、最近の最高裁判決で、女から男に性別変更した夫と妻との間のAID(非配偶者間人工授精)で生まれた子について、生物学的にも異性の夫婦間のAIDで生まれた子と同様に、「嫡出子」と認められた。これは、民法772条「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。」という規定に基づく。こうなると、父子関係を定めるために設けられた「嫡出推定」制度は陳腐化するのではないか。

惟うに、生きた人間の社会では、「法律婚制度」の枠から外れるケースが出てくることは避けられない。その場合の対処について、二つの方向性が異なる方法が考えられる。一つは、枠から外れたケースを枠内に取り込む方法であり、他は、枠自体を取り払う方法である。前者の場合、必ず枠内に取り込む要件が設けられて線引きされるから、枠内に入れる者と入れない者とで差別化される。性同一性障害者の性別変更が認められる要件は厳格で、性転換手術が必要である。つまり、「異性婚」が擬制されなければならないのであり、あるがままの「同性婚」を許容しない。

「同性愛」の性的嗜好をもったり、生物学的な性別と心理的な性別の不一致に苦しんだりする人が現にいる以上、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とする憲法24条2項に照らせば、法律婚の枠を取り払う方法こそ採用されるべきである。すなわち、「法律婚主義」は法律婚優遇制度であり、差別を生み出す。これに対し、「事実婚主義」は、人が婚姻生活を営んでいる事実に対し婚姻の法的効果を付与する。近親婚や重婚でも、当事者の自治に任せればいい。「個人の尊厳」は、国家が付与してくれるものではなく、人が実現するものである。

2.「夫婦同氏」強制の違憲性

民法750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定め、夫婦のどちらか一方に改氏を強制している。

しかしながら、これでは「婚姻の自由」と「両性の平等」が両立しないのであり、憲法24条、14条に違反する。

このことを考えると、不平等の起源が「法律婚主義」にあることが分かる。「事実婚主義」なら、夫婦の同氏が強制されることはない。同氏を望む夫婦が選択的に同氏を称することができるようにすれば足りる。

ちなみに、民法改正として論じられている「選択制夫婦別姓」は、倒錯している。「優遇された法律婚に取り込め」と要求することは、事実婚差別を温存するものであり、破廉恥ではなかろうか?

3.「単独親権」の違憲性

民法は、「婚姻中は父母の共同親権」としている。換言すれば、未婚や離婚は単独親権である。なお、未婚や離婚自体が「親権喪失事由」とはされていない。

しかし、2人いる親のうち必ず「どちらか一方が親権を喪失する」制度は、「未婚・離婚の自由」と「両性の平等」が両立しないから、「夫婦同氏」の強制と同様、憲法24条、14条に違反する。

さらに問題なのは、父母間で協議が調わない場合に、裁判官が決めることである。戦前の「イエ制度」の下では「家の自治」があり、家族は国家の直轄ではなかった。それが、憲法24条により「イエ制度」が廃止された結果、皮肉なことに、国家が家族・家庭を支配することになったのである。

言うまでもなく、親は日本国憲法で「主権者」とされている。それに対し、日本の裁判官は、官僚にすぎない。そう考えると、どうして裁判官が片方の親から親権を剥奪できるのか、全く不思議である。

「共同親権」と「単独親権」の狭間で――「共同監護」を創造する

平成27年4月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.民法766条類推適用の限界

民法は、婚姻中は父母の共同親権とし、離婚後は単独親権(監護)とするが、婚姻が破綻している場合や、破綻していないまでも別居しているような場合について、何らの規定も置いていない。そのために、当然のことながら、家事審判の手続法には司法が介入する根拠規定がない。しかるに、父母間での子の監護をめぐる紛争は、その状態自体が「子の福祉」を損なうと考えられることから、離婚後の子の監護に関する事項について定めた民法766条を類推適用し、家事審判法9条1項乙類4号により「家庭裁判所は相当な処分を命じることができる」とする平成12年最高裁決定により、その後の実務が運用されてきた。「監護者指定」や「面会交流」も、ここでいう「相当な処分」である。

問題は、「子の引渡し」である。父母の離婚後であれば、「監護親」と「非監護親」との間の問題であるから、「監護者指定」の審判を要しない。そして、前記のように、婚姻中の父母間の「子の引渡し」も離婚後の単独監護を類推するなら、端的に「子の引渡し」についてのみ判断すればよいはずであり、「監護者指定」を宣言する必要はないことになる。しかるに、離婚前の父母間における「子の引渡し」について、「監護者指定」を媒介しないでされたものはないようである。それは、やはり「離婚後の単独親権」と「離婚前の共同親権」との実定法上の差異を無視できないからであろう。

しかるに、裁判官は、この実定法上の差異を無視して、「子の引渡し」を導き出すための法的根拠として「監護者指定」の審判をする。すなわち、「単独監護者指定」により、共同親権者から親権を剥奪するのである。しかも、それが「子の福祉」を口実にされるのだから、言語道断である。ちなみに、「子の福祉」の観点から、親権・監護権に何らかの制限を加える必要があるのであれば、親権喪失や親権停止によるべきである(民法834条、834条の2)。

また、「面会交流」の審判でも、同様である。裁判官が立論の最初にもってくるのは、「非監護親と子の面会交流は、子の福祉に反すると認められる特段の事情のない限り、子の福祉の観点からこれを実施することが望ましい。」という「命題」である。離婚前の共同親権者を「非監護親」と決めつける法的根拠はない。法的根拠を別にしても、この「命題」から明らかなのは、子を監護教育する親の権利(親権)は、裁判官が「子の福祉」を口実にして、いかようにでも制限できるという宣言である。「4か月に1回程度、妻が子らの写真を夫に交付する」という破廉恥な審判もある。4か月に1回程度子どもの写真を見せられて、何が「親子の交流」か。子どもは、父と接触を断たれて、どんな福祉を享受するというのか。このような審判は、子を連れ去られた父親の親権・監護権を剥奪しながら、裁判官が父親に「お恵み」を施しているにすぎない。

2. 「傲慢症候群」という人格障害

3月16日の朝日新聞に「傲慢学会」という研究会の記事が掲載されていた。トップが助言に耳を傾けず冷静な判断ができなくなって経営につまずく。これを「傲慢症候群」と名づけ、提唱しているのは神経科医で英政治家のデービット・オーエン元外相・厚生相(76歳)。病気ではないが、「権力の座に長くいると性格が変わる人格障害の一種といえる」という。長く権力の座にあると、自信過剰になり、周囲が見えなくなる。ニューヨークで、乗務員のサービスに激怒して飛行機をひきかえさせた「ナッツ騒動」も「傲慢」の代表例という。

トップが上司への甘言も巧みな、いわゆる「ひらめ社員・役員」に囲まれているうちに、組織の成長や存続を脅かすリスクにさえ鈍感になりかねない。その対策として、オーエン氏は、「暴走しはじめた本人に目を覚まさせる側近をつける。精神カウンセリングをうける努力をしてもらい、手がつけられない場合は辞めてもらうべきだ」と話す。

一方、日本国憲法では、「裁判官の独立」を保障する観点からその身分は手厚く保障されている。「裁判官の独立」こそ、「傲慢症候群」の温床である。そのような裁判官に「親子の人生」の決定権を委ねることは恐ろしいことである。家庭問題は、本来的に私的自治の領域にあるのだから、家庭裁判所は、当事者の自力での解決を援助するためにこそ存在するのではないか。

3.「単独親権制」廃止を展望した「共同監護」

現行実務が「単独監護原理主義」だからといって、それに反発する「共同親権教条主義」では、違法で異常な実務を打破できない。いつまで、離婚後の単独監護条項の類推適用で凌ごうというのか? 法律家なら、このような法運用が「単独親権の前倒し」であることが分からないはずがない。その実務運用を平然と肯定しているのだから、法曹資格を剥奪すべきではなかろうか。

ところで、離婚前の「監護者指定」審判について、かつては実務でも共同監護の規定を活かす形での解決が模索されてきた。沼田幸雄判事によれば、「監護者指定」の審判が暫定的なものであることをも併せ考慮すれば、条文に反する単独監護を特に固有の効果もないのに審判主文であえて宣言する必要はなく、むしろ共同監護であることを確認した上で、必要に応じて夫婦の双方または一方に対する不作為命令とか作為命令などを組み合わせて主文を掲げることとすれば足りるのではないか、という。それは「共同監護命令」というべき内容であり、カリフォルニア州の「共同監護」モデルを参考にしている。すなわち、単独監護という一方の親の親権を停止するような内容の審判から、子どもとの時間を平等にするような形態の内容のものまで、夫婦の実情に合せて、「共同監護形態の形成処分」をしていくべきではないか、という。「親権停止」を「単独監護者指定」で代替するのは法的には誤りである。しかし、「監護者指定」を「共同監護命令」の内容をもつ「バリエーション豊かな形成処分」とする点で、家事審判の真骨頂を発揮しているといえる。

「共同監護命令」の内容をもつ「バリエーション豊かな形成処分」となれば、当事者が解決の主導権を握らなければならないし、そこでは「単独監護原理主義」も「共同親権教条主義」も無意味になる。ここで何より大事なことは、離婚前の「共同監護」が離婚後に引継がれていく「現実」である。そして、当事者の「共同監護」の実績が、離婚後の単独親権制廃止を展望させる。すなわち、まず民法改正があって、それによって共同親権が実現するのではない。父母が「共同監護」を実践することによってのみ、単独親権制は廃止されるのである。したがって、家裁を利用する当事者は、「争う」よりも「共生」の解決を目指すべきであろう。

各国の離婚後の親権制度に関する調査研究業務報告書

出典:法務省ホームページ
公表:平成26年12月

 日本における離婚後の親権制度の在り方について,法整備の必要性等を検討するため,複数国での比較法的視点に基づく基礎資料を収集することを目的として,当省が委託しておりました各国の相続法制に関する報告書を公表いたします。

※報告書の目次(抜粋)は下記です。詳細は、法務省ホームページに掲載されている報告書を参照ください。

「各国の離婚後の親権制度に関する調査研究業務報告書」

第1 部 ドイツ( 稲垣朋子三重大学人文学部 専任講師)
I. はじめに―ドイツ社会における家族の状況
II.親権法の沿革
 1 .ドイツの法制度と親権法
 2 .離婚後の養育の理念転換
 3 .別居・離婚後の共同配慮
 4 .婚外子に対する配慮権
 5 .離婚手続と配慮権
 6 .共同配慮の実態
III. 共同配慮の支援体制
IV.裁判所による共同配慮への介入
 1 .父母の親としての適格性
 2 .父母の協力
 3 .他方の親と子との結びつきに対する寛容性
 4 .子の発達の促進
 5 .子の生活環境の継続性
 6 .子の意思
V. 共同配慮と交流権
 1 .高葛藤がある場合の対処
 2 .情報提供請求権
VI.交替居所
 1 .交替居所の意義と限界
 2 .養育費
VII. おわりに

第2 部 フランス( 栗林佳代佐賀大学経済学部 准教授)
I. 序
 1 .フランスの家族をめぐる社会的状況
 2 .親権法を検討するにあたって
II.親権制度
 1 .1970 年の法改正以前の父権
 2 .1970 年の法改正による親権
 3 .離別後の親権の共同行使― 導入の時期と背景
 4 .現行法の親権制度
III. 周辺事項
 1 .離婚手続と子に関する取決め
 2 .訴訟手続における子の意思の尊重
 3 .DV の被害者に対する保護命令

第3 部 イギリス( 田巻帝子新潟大学法学部 准教授)
I. イギリスの社会及び家族
 1. 家族をめぐる社会状況
 2. 家族をめぐる法制度
II.イギリス法における「親権」
 2. 現行の法制度
III. 親の離婚/ 別離後の「親権」制度
 1. 離婚/ 別離時の取決めと合意
 2. 当事者間で合意がなされない場合/ 他のPR 保持者に異議がある場合の対応
 3. 離別後の両親による「共同の親業行使shared parenting」
 4. 子の連れ去り
IV.その他:「親権」行使に関する公的機関の関与
【資料1 】子の親及び親以外の者による「親の責務PR」取得
【資料2 】親であることとPR 保持の必要・十分条件別にみた「親権」行使内容

第4 部 アメリカ( 山口亮子京都産業大学法学部 教授)
はじめに
I. アメリカの社会及び家族事情・概説
 1. 子どもの環境
 2. 家族観と家族の多様性
 3. 法制度
 4. 連邦法
II.監護権
 1. 監護権(custody) の内容
 2. 共同監護
 3. 監護権決定手続
III. 養育費
IV.面会交流
 1. 親子の交流の原則
 2. 親子の交流の例外―面会交流の制限
V. 子の奪い合い紛争
 1. 子の引渡請求
 2. 監護親の転居の制限( relocation)
VI.ドメスティック・バイオレンス(DV) への対応
 1. 保護命令
 2. 監護権とDV
 3. 社会のDV への対応
おわりに

第5 部 オーストラリア( 小川富之近畿大学法学部 教授、宍戸育世近畿大学大学院 博士課程)
I. はじめに―オーストラリアにおける親権、監護及び親責任に関する法制度
 1 .家族の状況
 2 .法制度の概観
 3 .オーストラリアの離婚制度
 4 .親子関係
 5 .子の監護及び養育
II.オーストラリアにおける親権、監護及び親責任に関する法制度の概要
 1 .親権、監護及び親責任に関する法制度の変遷
 2 .親責任に服する者
 3 .親責任を負う者
 4 .親責任を負う者の変更
 5 .親責任の内容
 6 .親責任の制限
III. 別居及び離婚の際の子に関する効果
 1 .別居制度
 2 .離婚制度
 3 .親責任を負う者の決定
 4 .監護に関する事項
 5 .面会交流
 6 .養育費
IV.別居及び離婚後の子の養育に関連する諸問題
 1 .家庭内暴力( 児童虐待を含む) の存在
 2 .子どもの居所の移動(リロケーションの問題)
V. おわりに―将来的課題等
【資料1 】オーストラリアの親権・監護権に関連する条文の邦訳

第6 部 スウェーデン( 千葉華月北海学園大学法学部 教授)
I. スウェーデンの社会及び家族をめぐる状況
II.親子法と同居生活に関する法律
 1 .親子法とその沿革
 2 .同居生活に関わる法とその沿革
III. 家事紛争の解決方法: 監護、居所及び面会交流について
 1 .家族へのコミューン(地方自治体) の責任と社会福祉委員会の責務
 2 .裁判所の役割
IV.監護に関する基本原則
 1 .子どもの監護を受ける権利と監護者の責任
 2 .共同監護の原則
 3 .監護の変更
V. 離婚後の監護権の基本構造
 1 .離婚制度について
 2 .離婚後の共同監護
 3 .居所の指定及び子どもの連れ去り
 4 .面会交流(共同親権の射程内での面会交流の問題)
 5 .養育費
VI.問題への対応: 児童虐待( barn misshandeln) 等がある場合の取扱い
 1 .社会福祉委員会への通告及び同委員会による調査
 2 .コミューンによる任意の支援と援助
 3 .公的介入(裁判所及び行政の介入)
VII. 総括

第7 部 スイス( 渡邉泰彦京都産業大学大学院法務研究科 教授)
I. 概説
 1 .スイス連邦について
 2 . 用語
 3 . 統計
 4 .法制度の体系
II.離婚に至るまでの一般的プロセス
 1 . 別居
 2 .婚姻保護措置
 3 .離婚手続
III. 離婚後の共同の親の配慮の沿革
 1 .離婚法改正( 2000 年施行) まで
 2 .弁護士・メディエーターへのアンケート調査
 3 .NFP52 の調査結果
 4 .離婚後の配慮権者の統計
 5 .2014 年民法典改正
IV.離婚後の親権制度の基本構造
 1 .配慮権の定義
 2 .基本原則
 3 .実体法上の規定
 4 .ドメスティック・バイオレンス等の事情がある場合の対処
 5 .老齢年金及び遺族年金における養育勘定
 6 .制度に伴って必要となる司法手続の概要
V. 離婚後の親子の人的交流
 1 .離婚後の共同配慮と人的交流の関係
 2 .監督下の人的交流
 3 .不作為義務
 4 .人的交流の執行
 5 .人的交流の制限及び消滅
 6 . 管轄
VI.養育費
VII. 子連れ別居等、一方の親による子の連れ去りに関する法規制
 1 .転居の制限
 2 .子の連れ去り
【資料1 】離婚時に夫婦が合意すべき事項
【資料2 】民法典に定められている児童保護官庁の職務

第8 部 韓国( 金 亮完山梨学院大学法科大学院法務研究科 准教授)
I. はじめに
II.離婚後の親権制度に係る改正の経緯
 1 .制定当時の親権法
 2 . 1990 年改正
 3 . 2005 年改正
 4 . 2007 年改正
 5 . 2011 年改正
III. 韓国の協議離婚制度の概要
 1 .協議離婚制度の概要
 2 .離婚の推移
IV.離婚後の親権の帰属
 1 .選択的共同親権制度
 2 .帰属の態様
 3 .養育権者の権限
 4 .子の連れ去りの違法性の判断基準
V. 養育費・面会交流
 1 .養育費
 2 .面会交流
VI. むすび
【資料1 】協議離婚意思確認申請書
【資料2 】子の養育と親権者決定に関する協議書
【資料3 】共同親権・共同養育に関する合意( 作成例)
【資料4 】離婚熟慮期間免除( 短縮)理由書
【資料5 】協議離婚制度のご案内
【資料6 】協議離婚制度のご案内( 在外国民用)
【資料7 】確認書
【資料8 】陳述調書
【資料9 】確認期日調書
【資料1 0 】不確認通知書
【資料1 1 】養育費負担調書

第9 部 オーストリア( 渡邉泰彦京都産業大学大学院法務研究科 教授)
I. 概説
 1 .用語及び本稿の範囲
 2 .人口、家族形態: 統計
 3 .法制度の体系
II.子の福祉
 1 .親子間の権利に関する一般原則
 2 .子の福祉
III.別居後・離婚後の配慮
 1 .合意による配慮
 2 .父母が合意できない場合: 仮の親責任の段階
 3 .配慮の剥奪・制限
IV.家庭裁判所補助
 1.導入の経緯
 2 .家庭裁判所補助者の職務
 3 .少年福祉員
 4 .子の補佐人
V.離婚後の親子の人的コンタクト
 1 .離婚後の共同配慮と人的コンタクトの関係
 2 .離婚後の人的コンタクトに関する法制度及び実体
VI.転居の制限:居所指定権

離婚後の子どもの監護、親の権利・義務のあり方をめぐる問題

出典:「実践と研究H24第14号」(石川県社会福祉士会)橋爪真奈美氏執筆論文
離婚後の子どもの監護、親の権利・義務のあり方をめぐる問題~子どもの連れ去り・引き離し問題から見る現行法制度の矛盾と課題~

 愛するわが子が突如連れ去られてしまったら、あなたならどうしますか?その連れ去った相手が、これまで人生をともにしてきたパートナーだったとしたら。
 離婚紛争の状況下において、片方の親が無断で子どもを連れて突如姿を消してしまうような事件が、近年日本で急増している。子どもの親権を一方的に奪ってしまうこのような行為を「子どもの連れ去り・引き離し」と呼び、当事者や司法関係者、心理学者などの間では大きく注目され、社会問題化しはじめている。
(以下、本文参照

禍なるかな「法律家」よ!

平成24年5月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

1.「親権侵害」は違法ではない?
民法第818条3項は、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」と定め、同第820条は、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」と規定している。すなわち、婚姻中は、「共同親権」「共同監護」である。また、離婚については協議離婚を原則としており、離婚後は単独親権(民法819条)になるからこそ、「離婚後の監護に関する処分」について条文が規定されている(民法766条)。すなわち、離婚後は「単独親権」「共同監護」というのが民法の前提である。
ところが、実際には、離婚後の監護問題を含めて夫婦が協議する過程を経ないで、離婚を仕掛ける配偶者が一方的に子の「身柄」を拉致し、他方配偶者と子の交流を遮断することから離婚紛争が勃発する。すなわち、共同親権者の一方が子どもを連れ去ると、他方は、子どもに会うことさえままならなくなり、「家庭破壊」にさらされた配偶者こそ悲惨である。
しかしながら、離婚成立前はたとえ別居になっても、法的には「共同親権」「共同監護」である。そうすると、未だ親権者である他方配偶者の親権の行使を不可能にさせることを適法と解する余地はないはずである。それにもかかわらず、弁護士も裁判官も、このような一方配偶者による他方配偶者の親権侵害行為を違法と認識しない。欧米では、このような親権侵害は誘拐罪に該当するなど犯罪行為とされていることと比較すると、日本では、親権・監護権が「親の固有の権利」と認められていないのだと思われる。現に、離婚後の単独親権制では、裁判官が「子の福祉」の見地から片親の親権・監護権を合法的に剥奪している。しかし、「固有の権利」とは、奪うことも、放棄することもできないものを言うのであり、民法第820条が「権利を有し、義務を負う」と定めていることは「固有の権利」を意味している。

2.「単独親権制」の逆襲 ― 大阪2児放置死事件
ワンルームマンションに幼い姉弟(当時3歳と1歳)を放置して餓死させたとして、殺人罪に問われた母親(24歳)に懲役30年が言渡された(大阪地裁3月16日)。判決の報道によれば、被告は2009年5月に自らの浮気がきっかけで離婚した後、子どもを引き取ったものの、風俗店で働き始めてから2か月後の10年3月以降、現実から逃避してホストクラブの男性宅に連日外泊し、6月に帰宅した際、衰弱した2児に十分な食事を与えずに再び外出し、6月下旬に死亡させた。2児が苦しんでいる時、現実から目を背けて男性と遊び、遺体発見後も遊興したという。そして、判決は、最後に「子育てに苦しむ親に社会が理解と関心を示して協力することを願う」とし、行政を含む社会全体が児童虐待の発見と防止に一層努めるよう求めている。
これって、何かおかしくないですか? 2児の父親は、どうしていたのかしら? この被告は「子育てに苦しむ親」なの? 行政や社会全体は児童虐待の発見と防止に努めよ、ですって? 裁判官は法律家なのに、こういう事件に直面してなお「単独親権制」に疑問を持たないらしい。
考えてみれば、親権・監護権は「親の固有の権利」ではないのだから、奪われるだけでなく、放棄だってできる。2児の母親も、父親も、「親業=ペアレンティング」を放棄している。つまり、「単独親権制の逆襲」というべきことで、2児を殺したのは「単独親権制」にほかならない。

3.法執行の現場 ―人間不在
親権者指定・監護者指定・子の引渡・面会交流など「子の監護をめぐる処分」を行う裁判官は、当該子どもの養育に全く責任を負わない。ただ、「子の福祉」をお題目にして、単独親権・単独監護を貫徹させるだけである。
しかし、日本の官僚裁判官が、「子の福祉」とは何かを理解しているとは思えない。それは、裁判官だけでなく弁護士も同じで、家族法を学ばずに法曹になるし、何よりも現行法を絶対的与件として疑わない思考方法のせいで、現実に対する感受性が欠如している。「子の引渡し」の強制執行や人身保護請求事件の現場で、泣き叫ぶ子どもを権力的に連れ去る(これは「司法拉致」というほかない)ことに「正義の実現」という高揚感を覚えるなら、人間として倒錯している。ナチスのホロコーストも現実の執行者がいればこそと考えれば、日頃から、こういう非人間的なことができる「人」を許さない対応が重要だと思う。なぜなら、つまるところ、その人の「人間性」「倫理」「良心」の問題だからである。
とはいえ、このような「現場」が出現するのは、「単独親権制」に起因する。つまり、父母のうちどちらかが親権・監護権を失うとなれば、「椅子取りゲーム」のように、子の「身柄」の争奪になるのは必然である。それにもかかわらず、40年にわたって離婚問題に取り組む杉井静子弁護士は、「親の権利ばかりを振りかざすのではなく、子どもの幸せを最優先に考えるべきだ」と話している(読売新聞2012.4.2)。しかし、これは、原因と結果を逆転させている。「単独親権制」を廃止しないで親に説教しても、子の「奪い合い」を沈静化することは期待できない。

4 誰のための司法? ― 「当事者主権」
日本の弁護士は、依頼者との関係が異常だと私は思う。紛争を抱えた当事者は、幸せになるために弁護士に相談や依頼をするのだから、何が依頼者の利益かについて判断するのは、依頼者本人のはずである。しかるに、多くの弁護士は、素人である依頼者にはその判断ができないとの前提に立って、弁護士が「依頼者のため」に弁護方針・内容をすべて決定し、依頼者に押し付ける。しかも、驚くべきことに、その弁護士の判断自体が現行法の解釈として間違っていることが少なくない。そして、弁護士が有効な助言や方策をしないで依頼者が窮地に陥ると、依頼者を見棄てて自己保身を図る。弁護士の法的援助が真に必要となる土壇場で逃げるのである。
このような弁護士と依頼者の関係は「弁護士主権」というべきもので、これでは依頼者だけでなく、相手方当事者や関係者を不幸にする。こんなことは、私にはできない。私にできることは、紛争の全体像を明らかにしたうえで、具体的解決方向や方法について依頼者と協議し、依頼者自身の主体的力によって解決できるように援助することである。したがって、依頼者の意向や決定を尊重するのは当然である。すなわち、「当事者主権」である。
「単独親権制」という不正義に乗っかったまま、親に説教したり、引渡し強制執行や人身保護請求に尽力する弁護士が跋扈しているかぎり、日本の親子は幸せになれるはずがない。しかし、そのような弁護士しかいないとすれば、問題は当事者に返ってくる。当事者が依頼しなければ弁護士業は成り立たないのだから、弁護士を鍛え育てるのも依頼者なのである。
翻って、当事者は、国の主権者であり、最高裁判事をリコールする国民審査権も有している。さらに、裁判員制度や検察審査会制度など、司法を動かす側に参画するようにもなった。すなわち、司法や法制度は、もはや専門家の独占物ではないのである。したがって、専門家の横暴に怯むことなく、「自分の人生は、自分が支配する」という自律の精神を涵養しながら立ち向かえば、司法を幸福追求の道具とすることができるのである。

日本の法制度における離婚と親権の問題

出典:AMERICAN VIEW - WINTER 2012(米国大使館発行) コリン・ジョーンズ同志社大学法科大学院教授)

序論

 日本は国際的な親による子どもの奪取の温床という評判が高まっている。日本人の親が離婚の前後に米国から一方的に子どもを連れ去る事例が最近多発しており、しかもこうした行為が米国の法律や裁判所命令に違反している場合が多いことから、米国や他の国々の主要メディアの関心が集まっている。

 日本の法制度を通じて日本に連れ去られた子どもの返還を試みてもなかなか成功しない。その結果、米国で生まれ育った子どもの中には、米国人の親、親戚、友人、米国人として受け継いだものとのつながりを断ち切られてしまう子もいる。こうした連れ去りに対し日本には法的救済措置が欠けているように見える。その多くの要因について本稿で詳細に議論する。

「国際」問題にとどまらない子どもの連れ去り

 まず他国から連れ去られた子どもの返還を妨げる要因の大半は、日本国内で発生した連れ去りの事例にも影響を及ぼすと理解することが重要である。その中には日本人と結婚し日本に居住する米国人が関係する事例や、時には両親共に在日外国人である事例も含まれる。そうした国境を越えない事例でも、裁判所の関与にもかかわらず、離婚により一方の親が子どもとの接触を完全に絶たれることが多い。

 換言すれば、国境を越えて子どもが連れ去られる事例がより注目を集める傾向にあるが、こうした事例は日本人、外国人を問わず親が限られた法的救済措置しか受けられない日本の法制度の構造的な問題を反映しているにすぎない。従って米国をはじめとする各国の外交官が「国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」(以下「ハーグ条約」とする)への加盟を日本に働きかけ、国境を越えた子どもの連れ去りに関する日本の対応の変更を求めてきたのと同様、親の権利を主張する日本のさまざまな団体が、離婚後の親子関係の保護の強化のため、日本の家族法改正に向けてロビー活動をしてきた。

 2011年3月11日の東日本大震災と福島県での原子力発電所事故にもかかわらず、日本が間もなくハーグ条約批准に向け動く兆しが見られることは心強い限りだ。2011年5月、日本の国会は親の離婚後の面接交渉に関する国内法を改正した。なお本稿執筆時点でこれらの法改正は未施行である(その影響はほとんどないかもしれない)ため、本稿では改正点の特徴とともに、何十年も続いた改正前の法律についても論じる。

日本における法律の役割

 日本の法制度はおおむね外国法をモデルにしており、多くの面でドイツフランスの法律や制度に基づいているが、憲法と商法の多くの分野では米国法にも倣っている。実際、日本の家族法、および日本の裁判所が子どもの親権問題を解決する方法を説明すると、米国や他の西洋諸国と非常に類似しているように思われてしまうこともある。しかし日本の法律は、米国法より「上意下達」の性格が強い。米国では多くの重要な原則は、訴訟を通じひとつひとつ積み重ねられて決められてきた。対照的に日本では、法律は権威を表明し行使する手段となりがちで、裁判官(彼ら自身が権威者)はそうした権威の行使にあまり疑いを抱かない。日本の法律の上意下達の性質は、法令や手続き制度に見られる。裁判官や官僚ができることについては最大限の柔軟性を確保する一方、彼らの義務についてはその範囲を限定している。

親による子どもの連れ去りは犯罪か

 子どもを日本に連れ去られた米国籍の親は、日本の取り締まり当局から、日本の法律では親が自分の子どもを「連れ去る」のは犯罪に当たらないと言われる可能性が高い。しかし日本人、外国人を問わず、親が自分の子どもを連れ去ったために逮捕され、さらには有罪判決が下された事例もある。日本の刑法224条は「未成年者略取及び誘拐」の罪を非常に短い文言で規定している。「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処する」。これを読んだ米国人の弁護士はおそらく、「略取」「誘拐」などの言葉の解釈の仕方について詳しい情報を求め、判例を参考にしようとするだろう。しかしこのような法律を解釈する上で判例がそれほど役に立つとは思えない。少なくとも米国と同じように役立つことはないだろう。

 その結果、親による子どもの連れ去りを犯罪でないとみなすことと、一部の親を誘拐罪で逮捕することの両方が、日本の法律の「正しい」解釈として共存可能である。公共の秩序を乱す連れ去り(自分の子どもを街角でひったくる父親)は犯罪として扱われる可能性があるが、公共の秩序を乱さない連れ去り(自分の親と一緒に暮らすために子どもを連れて飛行機や鉄道に乗る、あるいは子どもと共に日本を訪れ、米国への帰国を拒否する母親)はおそらく犯罪として扱われないだろう。日本の警察には「民事」不介入の原則だけでなく、特定の紛争が民事か否かを決める幅広い裁量権もあるため、ある特定の連れ去り事例が犯罪であるかについての最も重要な判断が裁判所ではなく警察署で下される可能性がある。

行政処分としての親権の決定

 同様に日本には、離婚の際の子どもに関する親権、監護権、面接交渉権の決定に関しても、両親が別れた後、子どもが親と頻繁に継続的な交流を持つことが子どもにとっての最善の利益とみなす米国法の原則のように、裁判所が守らなくてはならない法定の指針はない。さらに日本には、子どもを生み育てることなど親子関係に関する基本的な権利を規定する憲法の条文や解釈が存在しないため、子どもに関する日本の裁判官の決定は、実質的には法律が存在しない場合に下される行政処分の形を取る。後段で論じるように、子どもに関して裁判官が下す最も重要な決定の多くは、非公開の裁判外の手続きによる「審判」の形を取る可能性が高い。

 従って日本の家庭裁判所の裁判官は、子どもに関する決定を下す際に非常に大きな裁量権を有し、例えば外国で下された親権に関する判決を完全に覆す、親権を持たない親に子どもとの面接を全く認めない、1年に数時間だけ面接を認める、または面接の代わりに毎年数枚の子どもの写真を(親権を持たない親に)送るよう親権者に命じるなどの決定を下す可能性がある。

協議離婚と子どもの親権

 日本では離婚と離婚後の子どもの扱いのいずれについても、一義的には協議により決定するとみなされる。日本の民法には協議離婚の規定があり、協議しても当事者が合意に至らず、しかも限られた事由が適用される場合しか裁判離婚は認められない。さらに米国では協議離婚でも裁判所への申請と、子どもがいる場合は裁判所が承認した養育計画または離婚同意書が必要だが、日本の協議離婚は単に関連書類を地方自治体に提出し、その自治体が当事者の戸籍に婚姻区分の変更と子どもの親権者を記載するだけで成立する。離婚の約90%がこの過程を経て成立するため、裁判所が関与するのは、当事者が協議離婚に合意できない場合、または離婚後に子どもの問題などで紛争が生じた場合など、少数の事例にとどまる。そうした紛争には、一方の親が子どもを連れ去ったり、離婚後にもう一方の親と子どもの面接交渉を拒否する場合などが含まれる。

 日本の法律では、裁判離婚あるいは子どもの親権に関し司法の救済を求める場合、まず家庭裁判所が開く調停に参加する必要がある。調停は家庭裁判所の調停室で、裁判官1人、裁判所が選んだ2人の調停委員、そして裁判所職員で構成される調停委員会が同席し開かれる。調停は双方が合意に至るか、裁判官がこれ以上調停を重ねても無意味と判断するまで、月に約1回のペースで続けられる。調停の実施は裁判所が主導するが、この時点では当事者が合意に至るよう促すことが主な目的である。

 日本における離婚の約8%――裁判所に持ち込まれた事例の大半――が、こうした調停手続きを経て成立しており、残りの2%は調停が失敗に終わった後の裁判の結果としての離婚か、裁判が始まってから判決が出るまでの間の和解による離婚である。従って離婚手続きを分かりにくくしているひとつの原因として、裁判所の関与と責任の範囲により、さまざまな手続きがある点が挙げられる。裁判所が全く関与しない協議離婚、裁判所が関与するものの結果に責任を負わない調停離婚および和解による離婚、そして裁判所が関与し最終的な結果に責任を負う裁判離婚がある(厳密にはさらに2種類の離婚があるが、まれなため本稿では取り上げない)。裁判離婚は全体の約1%でしかない。これらの異なる手続き制度は子どもの親権手続きにも関係する。

 日本の法律は裁判手続きについて規定しているが、この裁判手続きでは裁判所に責任のない結果が出ることが多いので、米国市民の親が日本の家庭裁判所に期待することと、家庭裁判所が考える自分たちの役割との間に大きな差が生じる恐れがある。子どもを取り戻したい、少なくとも面会したいと望む当事者は、通常できるだけ早く裁判所に「何かして」ほしいと思う。しかしほとんどの事例が調停から始まるため、家庭裁判所は当事者が調停結果に合意するよう促すことが裁判所の一義的な役割であると考えているかもしれない。さらに調停では、裁判所は補助的な役割しか担うべきでないとされているため、子どもにとって最善の利益であることが明らかな場合を除き、暫定的な救済措置(子どもの引き渡し命令など)の実施に消極的なこともある。

 調停では日本の家族法の他の側面も関係してくる場合がある。日本では当事者双方が合意する限り離婚は非常に簡単だが、一方の当事者が反対する場合、一方的に裁判離婚を勝ち取るのは非常に難しく時間がかかる。さらに両親の離婚後の子どもの扱いについて法律がほとんど規定していないのと同様に、日本の民法は財産分与、扶養料、養育費についてほとんど規定していない。そのため裁判所は不利な条件での離婚から経済的弱者を守るため、さまざまな原則をつくり上げてきた。

 2011年5月、民法に多くの改正が加えられたが、現在の家庭裁判所の慣行への影響ははっきりしない。第一に、この改正により児童虐待や育児放棄の場合の当局による一時的な親権停止がより容易になった。以前の法律では、永続的な親権停止が唯一の救済策であった。第二に、改正法の下では協議離婚を望む親は子どもの福祉を優先した上で、養育費の配分だけでなく、面接に関する取り決めや他の形での親子の交流について決めることが義務付けられている。当事者が決められない場合には、家庭裁判所が代わりに決定できる。小さな変更に見えるかもしれないが、改正前には裁判所の「行政処分」にすぎなかった面接交渉権が、今では民法で言及されているという事実は大きな前進の証と言える。

 しかし新しい法律では(親ではなく)裁判所が子どもの最善の利益になる決定を下すように求められるのか、また面接交渉は子どものために有益と見なされるのかが明確でない。自分の子どもの最善の利益のために行動するという法定の義務を全ての親に課す条項が民法の他の項目に追加された点と合わせ、家庭裁判所が今回の改正を、現在の慣行を成文化する以上の効果を持つとみなすかは不明である。

親権と監護権

 子どもに関する決定は一般的に離婚手続きの中で下されるが、調停が失敗すると重要な手続き上の違いが出てくる。しかしこれを理解するには、親権と監護権の概念を簡単に説明する必要がある。日本の民法では結婚している両親は未成年の子どもに対して共同で親権を行使する。親権は子どもの世話と養育に関する親の権利と義務の両方を含むが、それだけでなく子どもの財産管理や子どもに代わる法的行為(パスポートの申請など)、養子縁組への同意さえも含む。親権は商取引や政府機関の手続きにも関係するので、戸籍制度を通じて確認できる。子どものパスポート申請など親子関係や申請者の親権についての証明が必要とされる手続きには、子どもの戸籍抄本が求められる場合がある。

 協議離婚では、離婚後にどちらの親がどの子どもの親権を持つかを両親が離婚届に記載するだけである。しかし重大な制限のひとつとして、日本の法律ではたとえ両方の親が合意しても、離婚後の共同親権の行使の正式な継続は認められていない。

 手続き上、裁判所の関与が監護権と親権の問題をより複雑にしている。なぜなら裁判所が、親権の「養育と監護」の要素を、財産管理と法定代理人の側面から切り離し、それぞれを別の親に与えることが可能だからである。従って母親が監護権を得て子どもと同居し養育する一方で、父親が親権(監護権の要素は除く)を得ることもある。この場合の親権者は戸籍に記載されるが、子どもの財産管理と子どもの名前で法的行為を行うことのみに限定される。実際には、このように親権を分けることはまれである。裁判所が親権の2つの要素を切り離して扱えることは、最終的な結果よりも手続き面でより重要である。

 親権に関する司法判断は一般的に、裁判を経た裁判上の離婚が成立する時点で裁判所により下される(または変更される)。離婚調停が失敗した場合、離婚訴訟を起こす責任は当事者にある。当事者のどちらも提訴しない場合、法律上では結婚したまま別々に暮らすことになる。親権は名目上、両方の親が持ち続ける。

 しかし親権の監護権の部分(つまり誰が子どもと同居し養育するか、面接交渉、養育費の支払い、一方の親に連れ去られた子どもを返還させるべきか)に関しては、調停が失敗すると、当事者が訴訟を起さなくても裁判所が自動的に審判の手続きに入る。協議離婚の後で面接交渉をめぐる紛争が起きた場合や、米国や他の国で離婚が成立した後で子どもが日本に連れ去られた場合には、離婚後にこうした判断を裁判所が下したり変更することもできる。

 手続き上、これは非常に重要である。裁判官がこうした決定を下す限りにおいて、調停が失敗した後の裁判所の審判を通じて下される可能性が高いからである。家庭裁判所の審判は手続き面でも証拠の面でも条件が非常に緩い「裁判外の紛争処理手続き」で決定される。従ってほとんどの親にとって手続きの中で最も重要なこと、つまり子どもの運命が決定される部分で、(司法が関与するため)裁判のように見えるが、手続きまたは証拠の面で一般人が裁判に期待する保護手段の多くを欠く手続きを経ることになる。

 裁判所の審判に対しては不服申し立てができ、離婚訴訟になれば、裁判離婚を認める裁判官が離婚に付随する子どもについての決定を下すことも可能だ。しかし現実には、明らかな間違いや状況の変化がない限り、先に下された監護権に関する審判結果に裁判官が疑いを差し挟むことはあまりない。

限定的な法的強制力

 子どもの連れ去りまたは面接交渉の妨害に関わる事例では、裁判で完全に「勝利」しても意味がない場合がある。日本の民法では、多く事例で判決の執行が困難になっており、子どもをめぐる紛争においては問題が特に顕著である。日本の裁判所には民事判決の執行を強制できる、警察と同様の権限を持つ執行官がいない。同様に日本の裁判官には、裁判所の決定に従わない当事者に法廷侮辱罪で制裁を課したり刑務所に収監する幅広い権限がない。またそのような事例において、裁判所が警察に関与を求める仕組みもない。

 家庭裁判所の命令を執行するための最初の手続きは、家庭裁判所による「履行勧告」だろう。その際、子どもの監護権を持つ親が面接交渉に関し協力を拒否する事情を確認するために、家庭裁判所の調査官がさらに調査することがある。しかし履行勧告が出されたとしても、不履行に対する制裁はない。実際に履行勧告は、司法機関というより社会福祉機関としての裁判所の役割の延長線上にある、社会福祉事業の一形態として考えられている。従って法的拘束力は全くない。

 執行に関する実際の法的救済措置については、日本の民法には、特に一方の親から他方の親への子どもの強制的な引き渡しに関する命令の執行を規定する条文が一切ない。救済措置のひとつとして、連れ去った子どもの返還あるいは面接交渉での協力を求める裁判所の命令に従わない当事者に裁判所が過料を科すことがある。しかしこの種の「間接強制執行」は過料の対象となる定収入または特定可能な資産を持たない親に対しては、効果は限定的だろう。

 幼すぎて自分の意見を持てないとみられる子どもの返還に関する裁判所命令の場合は、命令の「直接強制執行」の請求も可能である。この場合、地方裁判所の執行官が物理的に子どもを返還させようと試みる。子どもを連れ去った親が暴力を振るう恐れがある場合、執行官は警察の同行を求められるが、警察は犯罪が起きなければ関与しない。執行官には非協力的な親を逮捕する権限がない。従って直接強制執行は成功することもあるが、子どもの返還をかたくなに拒否する、あるいは単に子どもを隠すという単純な方法をとる親の場合、失敗もありうる。

 以上の救済措置がいずれも失敗した場合、最後に取りうる司法手段は人身保護請求である。官吏による違法な身柄拘束に対する古いコモンローの救済策に由来する人身保護請求は、日本では子どもが「拘束」されている理由を審問するために子どもを裁判所に連れてくるよう、子どもを連れ去った親に命令するために使われる。人身保護請求による出頭命令に従い、連れ去った子どもを裁判所に連れてくることを拒否する親は、懲役または罰金を科される可能性がある。従って人身保護請求は、子どもの連れ去りに関し、不履行について刑罰を科せられる唯一の司法の救済措置である。

 後に残された親が、日本に連れ去られた子どものために直ちに人身保護請求を申請することは珍しくないが、たとえ外国の裁判所命令に違反していたり、その国での刑事訴訟に発展する場合であっても、日本の裁判所が子どもの拘束を「著しく違法」であると判断した事例はないように思われる。日本の裁判所が、外国人の親に監護権を認める外国の裁判所の命令の正当性を認めながら、人身保護請求を却下した事例がこれまでに多数あった。

配偶者からの暴力、法改正、ハーグ条約

 日本政府はハーグ条約の批准に消極的に見えるため、しばしば批判の対象になっている。しかし前述のように、ハーグ条約を意義ある形で実施するには、日本の国内法の大幅な改正が必要である。日本のように民主的な社会では、その過程でさまざまな議論が必要になるという点は理解できる。

 ハーグ条約をめぐる議論で繰り返し表明されてきた懸念のひとつは、米国や他の国で暮らす日本人の母親が、配偶者からの暴力を恐れ、子どもを連れて一方的に日本に戻った事例をどう扱うかである。配偶者からの暴力は政策上の正当な懸念事項だが、米国や他のハーグ条約加盟国の司法制度を通じ適切に処理できるとみなすことが可能な問題でもある。

 配偶者からの暴力に関する懸念が、主にハーグ条約加盟国の司法制度への信頼の欠如を反映するととらえるのは簡単だが、配偶者からの暴力については国境を越えない親権をめぐる問題でも意見が分かれる。日本の法律では「配偶者からの暴力」の定義がことのほか広く、解釈ではさらにその範囲が拡大することが多いため、身体的暴力のみならず、言葉による虐待、心理的「暴力」、時には「経済的暴力」まで含まれる。

 日本人の中には、ハーグ条約は締結すべきだが、施行法には配偶者からの暴力または虐待がある場合には子どもの返還を妨げる例外規定を盛り込むべきと提言している人もいる。日本弁護士連合会はさらに踏み込んで、日本がハーグ条約を批准した場合、いかなる施行法も、そのような事例での子どもの返還を阻止するだけでなく、子どもを連れ去った親が子どもと一緒に(元の居住国に)戻った場合、刑事訴追されるのを防ぐ条項を盛り込むべきと提案している。配偶者からの暴力と虐待の定義が広いことを考えると、日本に子どもを連れ去ったいかなる事例も、実質的にこの例外の範囲に入るとみなすことができるように思われる。しかしこれはまだ存在しない法律について推測しているにすぎない。

将来に向けて

 本稿の序論で記したように、東日本大震災により日本の政策決定者は取り組むべき重点政策を大幅に転換することになるだろう。ハーグ条約および日本の家族法のさらなる改正に関し、近い将来何が期待できるかまだ分からない。しかし自然災害があったとしても、日本人はこれからも結婚し、子どもを持ち、時には離婚する。状況に変化がない限り、日本は今後も子どもの連れ去りの天国と見なされるであろう。これは悲しいことである。なぜなら結局のところ、これからも苦しみ続けるのは、日本や米国をはじめとする世界中の国々の最も大切な資源である子どもたちだからである。

*本稿に述べられている意見は、必ずしも米国政府の見解または政策を反映するものではありません。

「親権妨害」に見る「日本の司法の闇」

平成23年12月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

「親権妨害容疑 米で逮捕」(毎日新聞10月27日夕刊)。米国に住むニカラグア国籍の元夫(39)との国際結婚で生まれた女児(9)を無断で米国から日本に連れ出したとして、日本人女性(43)が親権妨害容疑で米国ハワイ州保安局に逮捕された。
女性は、02年2月に結婚して女児を出産。米国ウィスコンシン州で暮らしていたが、08年2月に子どもを連れて日本に帰国。09年6月に米国で離婚が成立し、元夫に親権が認められた。一方、女性は、親権者の変更を求めて神戸家裁伊丹支部に家事審判を申立て、今年3月、女性の親権を認め、元夫と子どもに米国で年間約30日間面会することを認める審判がされた。4月7日、女性は永住権を更新しようとホノルルへ行ったところ、ウィスコンシン州から親権妨害容疑で逮捕状が出ており、ハワイ州保安局に逮捕された。
女性は、刑事裁判で一旦無罪を主張したが、長女を戻す代わりに量刑を軽減する「司法取引」に応じた。釈放されるとGPS(全地球測位システム)機器を装着されるという(朝日新聞11月22日夕刊)。
なお、日本の家事審判は、双方即時抗告し、大阪高裁に係属中。

女性が長女を連れて日本に帰国したのは離婚成立前―すなわち父母の共同親権下であった。米国の裁判で元夫に親権が認められたのは、裁判中に女性が子どもを連れ去ったからであろう。というのは、米国では、子どもの健全な成育のために政策的に離婚後も父母の共同養育を原則としており、その政策を貫徹させるために、配偶者の共同親権を妨害するような親から親権を剥奪するのである。これは、別居親との面会交流に積極的な親を同居親とする「友好的親条項」と同じで、司法は、政策理念を実現するのに効果的な力をもっている。ここが、日本の司法と決定的に異なる。
日本では、「子どもの健全な育成」のために父母の共同養育が重要とは未だに考えられていない。未婚や離婚の場合には、単独親権であることが「子どもの健全な育成」の前提であり、父母間の協議により決められないときには、「子の福祉」(「最善の利益」ではない)の見地から、官僚裁判官が行政処分として単独親権者を決めるのである。しかも、「母親優先の原則」や「連れ去り者勝ち」という「既成事実優先の原則」により単独親権者が指定されるので、「連れ去り」「引き離し」の「親権妨害」が助長される。神戸家裁伊丹支部が親権者を女性に変更する審判を下したのも、日本の家裁実務の典型である。むしろ、女性は、日本の単独親権制をめぐる家裁実務を当てにしたからこそ、子どもを連れて帰国したのであろうし、それを支援する弁護士も少なくない。そして、日本で親権者変更の審判を勝ち取ると、女性は「永住権を更新する」ためにハワイへ渡った。米国の司法に背きながら「永住権」とは、どういう料簡であろうか。「モンスターペアレント」さながらのモラル崩壊である。

ところで、このような「親権妨害」は、DV防止法が平成16年に改正されてから、多発している。ある日突然に、妻が子どもを連れて行方をくらます。突然失踪した妻子を案ずるのは夫として当然であり、警察に相談に行くと、DV防止法8条の2「被害を自ら防止するための警察本部長等による援助」の規定による「住所又は居所を知られないようにするための措置」の援助申出(捜索願不受理届)が妻から出されていて、夫は「真昼の暗黒」を実感させられる。そして、弁護士が盾になって、居所を秘匿したまま、離婚と婚姻費用分担の調停を申立ててくる。しかも、夫が知らないうちに、健康保険の「被扶養者」から外れていたり、生活保護を受給していたりする。このように、本来の制度が、「DV被害者の自立支援」を錦の御旗にして、全く「別ルート」で作動し、司法もそれを容認する。長期に亘り子どもと会えない夫は、冤罪死刑囚に匹敵するような絶望に陥る。
このような現象は、極めて不自然で作為的なものであり、全く同じパターンで多発している。それは、「DV離婚事件処理マニュアル」があり、それに基づいて「仕掛けられる」からである。この種の「マニュアル」では、子どもを連れて行方をくらまし、夫と接触しないまま、早期に離婚判決を得ることが基本方針とされている。そして、子どもとの面会交流についても、「子どもの権利」であることを理由に、面会させないのである。「DV被害者」と妻が言いさえすれば、行政は「別ルート」システムを作動して、妻子を夫から匿う。そして、「親権妨害」について、司法は民法の不法行為とさえ認めない。これでは、司法不在というほかない。
翻って、「DV防止法」は「男女共同参画」政策として推進されているが、全く欺瞞的である。「男女共同参画」というなら、未婚や離婚も含め、全ての子どもに対し「父母の共同子育て」を保障する政策を推進すべきである。そして、「カネ至上主義」「カネ万能主義」に偏向しない、質実剛健な「男女共同子育て支援」策を実施すべきである。

日本の司法は、「子の福祉」という価値判断を伴う事象について殆ど思考停止のまま、憲法や民法の価値観にも不感症であることを露呈している。それは、離婚と単独親権制によって、子どもの生育環境が著しく悪化し、社会不安と人生の不幸がもたらされている過酷な現実を見ようとしないからである。その点では、「司法」というより、弁護士を含む「法曹」の欠陥というべきかもしれない。
ところが、法曹人口や法曹養成制度をめぐって、弁護士会は改革の逆コースに舵を切ろうとしている。単独親権制がもたらす悲惨な紛争と親子の不幸を理解せず、「DVでっち上げ」をゴリ押しし、「親権妨害」を違法でないと言い張る等々リーガルマインドが欠如した法曹―これが日本の法曹である。このような法曹こそ、駆逐されるべきであろう。                     

親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究報告書

平成23年7月 法務省ホームページ

 父母が離婚した後などの親子の面会交流を促進するための施策について検討を行うに当たっての基礎資料を収集することを目的として法務省が委託した親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究の報告書を,法務省民事局において作成した同報告書の概要とともに,公表いたします。

親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究報告書の公表について 

 父母が離婚した後などの親子の面会交流を促進するための施策について検討を行うに当たっての基礎資料を収集することを目的として法務省が委託した親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究の報告書を,法務省民事局において作成した同報告書の概要とともに,公表いたします。

・ 「親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究報告書」(研究代表者 棚村政行 早稲田大学教授)(全体版)〔PDF;9,679KB〕
    (分割版)
    はしがき〔PDF;265KB〕
    Ⅰ 民間の面会交流支援団体及び支援活動についてのヒヤリング〔PDF;2,596KB〕
    Ⅱ 当事者アンケート〔PDF;714KB〕
    Ⅲ 家庭裁判所での面会交流事件と実務〔PDF;1,523KB〕
    Ⅳ 家事関係の弁護士ヒヤリング〔PDF;612KB〕
    Ⅴ 諸外国における面会交流支援活動の実情と課題〔PDF;5,874KB〕
  Ⅵ 総括〔PDF;324KB〕

・ 「親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究報告書」の概要(法務省民事局作成)〔PDF;431KB〕

 なお,今般,民法等の一部を改正する法律(平成23年法律第61号)が成立し,民法第766条の子の監護について必要な事項の例として「父又は母との面会及びその他の交流,子の監護に要する費用の分担」が明示されるとともに,父母がその協議で子の監護について必要な事項を定める場合には,子の利益を最も優先して考慮しなければならないと規定されました(この改正部分は,民法等の一部を改正する法律が公布された平成23年6月3日から1年を超えない範囲内において政令で定める日から施行することとされています。)。

人権としての「子育て」 性別役割分担と単独親権制

平成23年6月 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

 親は既に「出来上がった大人」として、「未熟な子ども」を養育するという前提は科学的に間違っている。大人も死ぬまで成長・発達するものであり、親自身が成長・発達することが、子どもの「育ち」にとって重要なことが証明されている。親の自己成長・発達は、親自身の幸福感と心理的安定の基盤であるだけでなく、子どものモデルとして重要である。それは、子どもが「有能な観察学習者」だからである。子どもは、親がどうふるまっているか、どう生きているかということを自分のモデルとして学ぶ。子の発達に対して親がなし得ることは、親自身が、どんなことであれ、自らが成長すべく努力し、精一杯生きている姿をみせることである。さらに、思春期になると、子どもは、親たちを「夫と妻」としてみるようになるし、親を職業人としても、家庭人としても観察する。両親が夫婦として調和せずに批判し合う対立関係にあることは、子どもにとっても不快で疎ましい。子どもは、その不快感を直接、親には言わないけれども、間接的な形で親に抗議し、批判する。親たちの発達は、子どもの心理的安定の基盤であると同時に、子どもの発達のモデルなのだ。

幼児の監護者として「母親が一番」という母性神話も科学的に間違っている。子どもや育児への態度や心理は、血縁や性の違いを超えて、養育責任と養育体験をもつことによって育まれる。人類は、育児本能をもつ動物とは違って、他者の心を理解し、他者を援助しようとする心が進化した人間ならではのこととして、小さく弱いものを慈しみ守り育てる心とスキルを持ちうる。父親が育児から降りてしまう状況は、人間ならではの心と力を無視している。人類の父親は、困難な育児をつつがなく成功させるために進化したものとも言える。日本における父親の育児不在状況は、子育て=繁殖成功の必需品として進化した機能が不全に陥っていることを意味している。ちなみに、脳科学の知見によれば、「ヒトを人間たらしめる」脳領域は前頭連合野であり、「社会の中でうまく生きて、最愛の配偶者を得て子どもをつくり、きちんとした成人に育てる」という目的で進化発達してきた知性群である。その脳機能を高めるには、「できるだけ多く他者と関わる臨床体験を重ねること」に尽きるが、8歳までが勝負という。

ところで、男女を問わず、家族役割を担い家庭生活を享受することは、人間として当然の権利であり責任である。家庭(家族)責任および権利が男女労働者双方のものであることは、ILO条約第156号「家族責任をもつ男女労働者の権利」に明記されている。スウェーデンでは、男性もごく普通に育休をとっているが、それは、職業と家族役割を同じ比重で尊重する理念に基づき、育休をとることが職業上不利になるどころか有利になる制度的な裏付けがあり、男性の育児権が保障されているからである。

ところが、日本では、1999年6月、「男女共同参画社会」法が国の基本的政策の柱として成立したが、一向に進展がない。この目標を実現するために必要なことは、「ワーク・ライフ・バランス」の確立である。ここで「ライフ」というのは、家事・育児など家庭のことをすることではない。家事は生きるうえで必須の労働であり、「ワーク」である。ライフとは、勉強、教養、趣味、スポーツなど心身の成長・発達のための個人の活動である。こうした活動は、経済と家事・育児といった生きるうえでの安定、すなわちワークの基盤があってこそ成り立つ活動である。妻が専業主婦の場合、男性は職業のワークを、女性は家事・育児のワークを分担しているだけで、夫も妻も「ライフ」どころではないのが現状である。

しかし、「ワーク」だけとってみても、人間にとっての発達を考えた場合、複数役割に関与することで質的な展開がみられる。育児は、職業とは全く異質の活動で、育休をとった父親は「育児は育自」を実感し、仕事の価値を相対化できるようになる。発達の原則からみれば、一つのことだけに集中していることは、心理的健康を害し、能率的にも良くない。また、生活体験を欠いた企業の経済活動が、社会やそこに暮らす人々にとって良いはずがない。異質な体験が、それらの問題を修正することになるのである。そうすると、依然として仕事に偏りがちな日本の男性にとって、子育てという権利の保障は大切である。

こうしてみると、単独親権制は、人類のサバイバル戦略と背反するもので、親にとっても子にとっても、成長発達を疎外するものである。また、社会学的に見れば、単独親権制と「母親優先」の運用は、ジェンダー・バイアスとジェンダー・アンバランスの象徴にほかならない。さらに、審判だ訴訟だと権力・権威に解決を委ねるあり方/話合いによる解決を図ろうとしないことも、脳機能の劣化・退化を示唆している。
しかるに、日本国憲法は、このような人間の尊厳を冒涜する事象を克服する規範として存在しているのである。

【参考文献】
柏木惠子『子どもが育つ条件―家族心理学から考える』(岩波新書)
門脇厚司『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』(岩波新書)

子の最善の利益を優先する法制の実現について

平成23年2月25日 家庭問題情報誌「ふぁみりお」第52号

子どもをめぐる法制の動きについて考える~子の最善の利益を優先する法制の実現を願って

親権や子どもに関する法律の改正に向けての動きや条約批准に関する議論が活発に展開されています。 平成23年通常国会への上程を前に、審議会の審議結果や要綱案が公表されました。 この動きの背後では、子ども人口が減少の一途をたどっているにもかかわらず、 平成22年の児童虐待は約4万4000件(うち死亡事件67件)(児童虐待防止法が成立した平成12年の約2.5倍)に達しています。 また、3組に1組の結婚が破綻(年間25万件前後)する中で、毎年約24万人の子どもが実親の一方と別れて暮らさなければならないという 子どもの受難が続いています。

面会交流の援助等で、実際に子どもに寄り添い、子どもの視点で子ども支援を行っている立場からみると、 立法論はどうしても大人の権利関係の調整という観点から進められ、 子どもの利益への配慮は具体性を欠いた理念にとどまる結果になっているように思えます。 今後、子の最善の利益を最優先する観点からの立法が志向され、その利益の具体的な実現に役立つことを期待して、 最近の動きに対するいくつかの疑問点を述べてみたいと思います。

第1 ハーグ条約と子どもの利益
(原文参照)

第2 共同親権・面会交流と子の最善の利益
平成8年の民法(離婚法)改正が要綱案のまま凍結されてからも、家族法分野の関係者の間では、 親子法を含めた家族法のあるべき姿を求めて検討が重ねられています。ハーグ条約批准への要請の動きと歩調を合わせるように、 共同親権、子どもの連去り禁止、面会交流の法律上の明文化を求める民間の動きも活発になり、法案作成、 議員立法への試みなどのあることが報じられています。

平成22年末には法制審議会から「家事事件手続に関する要綱案」が公表され、子の監護に関する処分の審判に関する条項の中で、 「面会及びその他の交流」という用語が使われています。離婚に対する破綻主義を前提に、法律上の規定がどうあれ、 離婚が理由で親子の縁が切れることを防止しようとする意識は確実に強まっていることが感じられます。

しかし、営々として面会交流の援助を続けてきたFPICとしては、 基本的枠組さえ見えない法整備の遅い歩みに苛立ちがないとはいえません。親権ひとつをとっても、妥当な用語の選択、 親権の具体的な設計内容(現行法上の問題点の整理と改正方向、親権・監護権の原則、 共同すべき事項等)の議論が熟しているとはいえない状況です。面会交流でいえば、両親は共に義務者であり、 権利者は子どもであることが実態において実現するような、子どもの利益を優先する観点からの議論を尽くして 立法化を急いでほしいところです。

日本での面会交流を子の最善の利益中心で考えるなら、子どもの日常生活の実情を尊重した運用が必要です。 親の迎えなしには子どもだけの帰宅を認めない欧米のような自己責任、家族中心の社会と、地域社会が消滅したといわれながらも、 児童見守り隊の地域の老人たちの送迎を受けたり、集団登下校をしたりする子どものいる日本社会との違いを認識する必要があります。 地域の学童クラブ、野球・サッカーチーム、学年が上がれば部活動、おけいこごと、塾なども、 欠席すれば子どもは居場所を失いかねません。子どもの家族外の人的ネットワークへの配慮が不可欠です。親の要求で、 子どもをドッジボールのように頻繁にやりとりすることは、決して子どもの要求に沿っていないことを知っておいてほしいものです。

連去り禁止や子が親に会う権利を明文化することは必要でしょう。それと同様に、あるいはそれ以上に、 子どもの成長にとって意味のあることは、面会交流をいっときの熱情的交流に終わらせることなく、 生きる楽しさを伝えてくれる親との交流が、細くても切れずに長く継続することです。日本の社会風土や子どもの年齢、 生活習慣に見合った継続可能な面会交流を、個々に辛抱強く模索していくことが重要ではないかと考えます。

第3 児童虐待防止法等の見直しの進歩と限界
(原文参照)

第4 終わりに
(原文参照)

「子育てする親の権利」を考える

平成22年12月23日 後藤富士子弁護士執筆論文
出典:みどり共同法律事務所 コラム・弁護士

 「親権」という語彙が、「親の子に対する支配権」のように感じるということで、子どもの権利を尊重する立場から批判がある。これを法的に表現すると、「親権は子に対する義務(責任)であって、親の権利ではない」という。しかし、それは間違っていると思う。むしろ、声を大にして「親の権利」と叫びたい。
 たとえば、「配偶者による子の拉致」事件では、親権を共同で行使する父母の一方が他方の親権行使を不可能にする。私は、こういう事態は、拉致した親による他方の親に対する不法行為(親権侵害)としか思えないが、それが司法の世界では通じない。また、離婚は親権喪失事由ではないのに、離婚により父母のどちらか一方が親権を喪失するし、非親権者と子の交流(親子の絆の構築)についても「面接交渉は親の権利ではない」として、「子の福祉」の名の下に監護親の意向次第と処理される。このように、理不尽に「子育て」から排除される私の依頼者は皆、「愛情深い親」である。その嘆き苦しみを見ているのも辛いが、こんなことして一体なにかよいことがあるのか、不思議でならない。
 具体的事例でも、「単独親権」だから、家裁の調査官調査も「どちらがいいか」「現状が問題ないか」という枠組の中で「事実の調査」をした挙句、「子の福祉に適う」という規範的評価を下す。両親が別居すれば、子どもは一方の親と同居し、他方の親とは別居する。同居親と子の関係が良好だからといって、別居親を「子育て」から排除する論理必然性はない。「子育て」から排除しなければならないような親は、親権喪失宣告をすればいい。そうすると、「単独か共同か」という以前に、「親権の権利性」が理論上の大問題であることに思い至る。
 ドイツでは、1979年の親権法全面改正で「親権」は「親の配慮」という用語に変更されたが、1997年の改正で「両親は、未成年の子を配慮する義務を負い、かつ権利を有する。親の配慮は、子の身上のための配慮と子の財産のための配慮を含む」という現行法になった。つまり、両親による共同性―父母間に婚姻関係がなくても共同配慮であることになったが、それ以上に「我が意を得たり」と思うのは、親の配慮は「最高の人格的権利」であり放棄できないとされ、また、子に対しては義務性をもつが第三者に対しては絶対的効力を有するとされていることである。したがって、国家が親に成り代わって「子の福祉」を実現すべく、単独親権者・単独監護者を指定することなどできないし、反対に、単独配慮や養子縁組の同意など親の配慮を自ら手放すときに親同士の同意では足りず、裁判所の司法判断を要する。つまり、日本の親権制度と正反対になっている。
 ところで、児童虐待防止の観点から、民法に「親権の一時停止」条項を加える案が法制審議会から出ている。しかし、これは全く噴飯物である。まず指摘したいのは、「親権喪失」に期限がないことで児童相談所が躊躇するというが、親権喪失事由が消滅したときは取り消すことができる(民法836条)。だから、「一時停止」でなく「喪失」でも充分運用できる。より重大なのは、児童相談所の「子育て」理念で、「虐待する親」を排除して保護施設収容によって公的機関が子どもを育てるという発想である。しかしながら、これで子どもは幸せになるのであろうか?成人になるまで施設で暮すというのでいいのだろうか。成人になった途端放り出されるのも問題である。一方、親権者の内縁関係者など、親権を有さない者による虐待には対応できない。こう考えてくると、虐待に対処するには、親権制度よりも、児童福祉法や刑事法を適用することの方が遥かに効果的であろう。
 ここに現れているように、日本の法律家は、「法の精神」というものに凄く鈍感だと思う。子を虐待などせず、慈しみ育てる能力も意欲も充分な親を、離婚や未婚で排除する「単独親権制」をそのままにして、離婚・未婚により単独親権下にある子の虐待を防止するために民法の親権規定を改正しようというのだから。父母間の婚姻関係の有無に関わらず共同親権とすれば、子が虐待の被害を受ける機会も減るだろうし、虐待があれば、「親権喪失宣告」など制度本来の趣旨に則して対応できる。すなわち、「虐待の防止」は、虐待があった際の事後的権力的対策を強化すること以上に、「親子の自然の情愛」を基礎にした親権制度―共同親権制度を充実させることによって「子育てする親」の自覚を促すことの方が遥かに建設的である。「子どもは社会が育てる」というよりも、「子育てできる親を社会が育てる」べきであろう。

「離婚は縁切り」で子は幸せか、「共同親権」へ国民的議論を

平成22年11月2日 シニアライター:野津 滋氏 東洋経済オンライン掲載  

週刊東洋経済の平成22年10月30日号及び東洋経済オンラインの平成22年11月2日に掲載された、単独親権制度の問題、ハーグ条約との関連考察、法学者への取材から「子どもの視点にたった共同親権」への議論が必要と訴える野津 滋氏の記事です。

「離婚は縁切り」で子は幸せか、「共同親権」へ国民的議論を

 米プロゴルファーのタイガー・ウッズ選手が昨年末以来の不倫騒動の末、エリン夫人との離婚を発表したのが今年8月。離婚の詳しい条件は明らかにされていないが、米メディアによれば、慰謝料は最低1億ドル(約81億円)に上るという。一方、3歳と1歳の二人の子供の親権は両親双方が持つ。ウッズ選手は「二人の子の親であることには変わりない。今後は二人の子供たちの幸福が最も重要」と表明している。

 ところが、もしウッズ選手が日本人で、日本国内で離婚していたら、ウッズ選手に親権が残ったか、はなはだ疑問だ。子供との定期的な交流も保証の限りではない。それはウッズ選手自身に問題があるのではなく、ウッズ選手が父親であるが故だ。

日本では離婚後単独親権に

 日本では、子を持つ夫婦が離婚するとき、どちらが親権者になるか確定しないと離婚届は受理されない。つまり、離婚後は片方の親だけが親権を持つ、「単独親権」となることが民法上、規定されている。一方、欧米では1980年代以降、離婚後も両親が子供の養育にかかわる「共同親権」が一般化している。

 親権とは、成年に達しない子を養育・教育し、その財産を管理する権利義務のことだ。子供の人格形成のためには母親の存在が必要などの理由から、日本では離婚後8割以上は母親が親権を持つ。特に10歳未満の乳幼児の場合は、ほぼ自動的に母親が親権者となる。

 一方、離婚後の子供の養育費の負担や、非養育親が子に会う面接交渉(面会交流)権について、日本の民法には規定がない。日本の離婚で8割以上を占める、裁判所を介さない協議離婚では、公正証書などでこれらを定めることはできるが、必須ではない。このため離婚後、養育費や面会交流が紛争の種になることが多い。

 親権を持たない親が子供との面会交流を求めても、親権者が強く拒めば面会は難しいのが現状だ。離婚後、定期的な面会交流を行っている親子は4割に満たず、その頻度は月1回程度という調査結果がある。一方、共同親権を原則とする米国などでは、別居の親と「隔週2泊3日」などの面会が一般化しつつある。

 さらに、厚生労働省の調査(2006年)では、離婚後、別居の親から子供への養育費の支払いを受けている人は19%にすぎず、過去に受けたことがある人を含めても35%にとどまっている。このことが母子家庭の経済的困窮につながっている。

 明治以降の家制度の中で、「離婚は縁切り」との社会通念が広がり、子供にしても別れた親と交流することを了としない風潮があったことは事実である。しかし、年間の離婚件数が25万件を超え、うち子供のいる夫婦の離婚も14万件に及び、毎年約24万人の子供が一方の親と別れて生活せざるをえないという現実がある。欧米での共同親権への移行も離婚の増加が背景だった。

 「離婚の増加とともに、女性の社会進出や父親の育児参加などによって親子関係も多様化しているのに、法制度はそれに対応できなくなっているのが現状。法の不整備が紛争を誘発している面も否めない」と、日本の親権制度に詳しい早稲田大学の棚村政行教授は指摘する。面会交流の可否をめぐって、調停や審判に至るケースはここ10年で3倍強に増えている。この背景に単独親権を挙げる見方は多い。

 問題は国内だけにとどまらない。国境を越えた子供の「連れ去り」や国際間の親権などの問題解決に対処する国際条約に、ハーグ条約がある。国際離婚の増加で子供をめぐるトラブルが世界的に増えているが、日本はG7参加国では唯一、これに加盟しておらず、また単独親権の立場をとるために、子供の「連れ去り」が事実上、容認されているとして、各国から非難の声が上がっている。

 具体的には、海外に住んでいた日本人の親が日本に子供を連れ帰った場合、海外の親は日本政府に子供を捜す協力が求められない。無理やり連れ出し逮捕される事件も起きている。同条約は、離婚後、子供がもともといた国の制度に基づいて子供の移動や面会が行われるべきとしている。政府は、このような状況を放置すれば外交上の信頼低下につながりかねないとして、来年にもこれに批准する方向で準備を進めている。

 もちろん、国内、海外問わず、配偶者の家庭内暴力などから逃れるために離婚、連絡を絶つというケースが少なくないことは確かだ。このような緊急避難には、司法や行政の対応が必要である。共同親権になると、離婚後も元配偶者からの理不尽な虐待が続くのではとの不安が残るという指摘もある。米国などでは、虐待などがあるケースでは共同親権の認められない場合が多い。

子供の視点に立った議論を

 ただ、忘れてはならないのが子供からの視点だ。両親の離婚による精神的・経済的ダメージを、最小限にとどめる環境整備が必要であることはいうまでもない。また、面会交流や養育費は子供の権利であり、子供の福祉・利益にかなった法整備が求められる。

 棚村氏は、「共同親権化は第一歩だが、これですべて解決できるわけではない。子供にとっていちばんよいルール、仕組みは何かという問題意識の中で、共同親権を含めた幅広い選択肢を持つことが、子供にとっても社会にとっても有益」と解説する。

 「離婚は縁切り」だからと、離婚後、子供が両親に自由に会う権利を一方の親が剥奪することは、国際的にも認められない。不幸にして離婚した元夫婦が、共に子供の養育・教育に責任を持つ「共同養育」への意識改革が求められている。欧米の実証研究では、離婚後も両親が養育にかかわるほうが子供の成長にもプラスとの結果が出ている。養育費の支給率や面会交流の割合が国際的に見て低いことは、日本社会の成熟度の低さを示しているとはいえないか。

 ハーグ条約批准を目指す政府だが、共同親権化には民法改正が必要であり、今回は見送る方針とされる。だが、棚村氏は、「ハーグ条約と民法など国内法整備は、セットで行うべき」と主張する。国内外での法制度の不整合が新たな紛争を招きかねないからだ。外圧に対する対症療法ではなく、社会の構造変化にかなった法整備が望まれる。

 離婚増と少子化により、子供の4・5人に1人が成人するまでに親の離婚を経験する時代になってきた。子供の福祉、多様化する親子関係への対応、そしてさまざまな家族・人間社会を許容できる成熟した社会形成のためにも、共同親権化への国民的議論をすべきときである。

(シニアライター:野津 滋 =週刊東洋経済2010年10月30日号)

更新 2018-01-08 (月) 20:03:31
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